ます、この辺に、甲州の有野村からおいでになった藤原と申すお宅がございますまいか」
「甲州の有野村――藤原ですって」
不破の関守氏が小首をひねると、お雪ちゃんは早くも合点《がてん》して、
「お銀様のことですよ、お嬢様の御実家のお名前なんです」
「ははあ――それに違いない、改まってそう聞かれると、ちょっと戸惑いをする。時に飛脚さん、何ですか、御用は」
不破の関守氏が改めて仕立飛脚の方に向き直ると、
「お手紙でございます、甲州の有野村の御実家から、お嬢様のところまで頼まれてまいりましたが」
「そんなら間違いはありません、ここがその藤原家の御別荘なのです」
「では、そのお嬢様は、ドチラにいらっしゃいますか」
「お嬢様は只今、ちょっと外出をなされたが、拙者共が万事、留守を預かっていますから、お申し聞け下さい」
「さようでございますか、直々《じきじき》にお手渡しをしたいのですが、いつごろお帰りでございましょうかな」
「さよう、長浜の方へ行かれましてな、湖水めぐりをなさる御予定だから、六日一日くらいはお帰りあるまいかと思うています」
「それは残念でございました、では、あなた様にお手渡しを致します、このお手紙――印《しるし》にちょっとお手判をいただきたいものでございますな。それから、お手紙のほかに、ちょっと口頭で申し上げて置きたいお言伝《ことづて》があるんでございますが」
「では、こちらへいらっしゃい」
関守氏は仕立飛脚を導いて、自分の監督部屋の方へと連れ立ちながら言いました、
「それはそれは、甲州から日限仕立《ひぎりじたて》で、それは御大儀のことでござったな。幾日かかりました」
「四日かかりましたよ」
「四日間、それはそれは」
「実は、その有野村藤原の御当主――お嬢様には父親のお方でございますな、その方が急に思い立ちになりまして、上方見物に出るとおっしゃってお出かけになりましたんですが、上方見物は口実でございまして、実は、たった一人の、一粒種のお嬢様、お銀様とおっしゃいますそのお方が、上方で何をしていらっしゃるか、それを見届けたいためなんでございます。おっつけ、そのお嬢様のお父上、すなわち伊太夫様とおっしゃるのが、これへお見えになることと存じますが、それに先立ちまして、藤原家のお番頭さまから特に頼まれましてな、こうして日限飛脚でやってまいりました。実は、それで、お手紙はお嬢様へ――それから別に、口頭で申し上げるように頼まれてまいりました文句は別でございますが、あのお嬢様にお附添でまいりました江戸の女の方――さよう、お角さんとかおっしゃいましたな、あのお方もこちらに御厄介になっておいででございましょうな」
「いや――その方は、おられません。とにかくあちらで万事」
関守氏が飛脚を導いて行くと、お雪ちゃんは、
「では、関守さん、後ほど」
と言って、辞して自分の離れの方へと帰りました。
三十八
不破の関守氏は、仕立飛脚を連れて、自分の座敷の縁へ座布団をしいて腰をかけさせ、自分は室内の机の傍に控えてこう言いました――
「いや、それは、こちらでもようくわかっているのですよ、我々はお銀様に対して、いま絶対服従の地位にいるのです、お銀様の計画の下《もと》に、お銀様の出資の下に、お銀様の理想の下に、一から十まで服従して仕事を助けているのです、どうして、我々の力であのお銀様をそそのかして、誘惑したりすることができるものですか。我々の頭よりは幾倍の優れた頭を持ち、我々の計数よりはずっと優れた計数でなさるんですもの、我々がお嬢様をかついだり、おだてたりして、こんな仕事をおさせ申しているのだとお考えになると、大間違いですよ」
と、関守氏から言われると、仕立飛脚も幾度か頷《うなず》いて、
「それはもう、仰せの通りでございます、あのお嬢様に逢っては、御両親一同、誰もかないません、父上の伊太夫様でさえ、どうにもこうにもならないのでございますから、あなた様方が、どうのこうのと言うわけではございませんが、今度のことは一番、大事の上の大事でございましてな、あのお銀様が自分の持分の財産を、すっかり新しい事業に注ぎ込んでおしまいになる、口幅ったい申し分でございますが、有野村の藤原家と申しますれば、あの国でも二と下らない分限《ぶげん》なのでございますから、お嬢様の分として分けてある財産だけでも少々のものではございませんのです、それをやらないと言えば、またあのお銀様が、どういう拗《す》ね方をなさるかわからず、分けて湯水のように使わせてしまった分には、御主人はとにかく、親類や家の宰領をする番頭の役目が立ちませぬ。それに、いよいよそうなりますと、御主人の伊太夫様も世をはかなんで、高野山へ隠れるとかなんとかおっしゃり兼ねないのでございます。でございますから、今
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