せんか、誰も好んで病気になる人はありませんから、病人が出来れば、当人にもゆっくり休ませるように、その仕事は、いくらでも代ってして上げるようにできるじゃありませんか」
「そうか、それはそれでいいとしてだ、では、病人に対するお医者の方へ廻るがね、お医者をどうするんだ――なかなかこれで、十年や二十年|薬研《やげん》をころがしたって、誰にも代ってやれるという商売ではねえ――」

         三十五

「ですから、その道の人はその道の人を頼まなければなりません、その道の人を頼むと言いましても、なかなか変った人でなければこういうところへは来てくれません、来てくれるような人は未熟の人か、世間を食い詰めたような人、そこへ行くと先生なんぞは、人間も変っていらっしゃるし、腕の方も大したものですから、先生のようなお方がこの胆吹王国にいらしって下さると、ほんとうに願ったり叶ったりだと思いますわ」
「こいつは見立てられたね――」
 道庵は頭を丁と一つ平手で叩きました。
「ですからね、先生、お江戸の方はお弟子さんに譲って、ぜひこちらへいらっしゃいよ、ここならば京大阪は近いし、江戸へおいでになりたければ一足で海道筋です、わたしがついていますから、お身の廻りのことは御不自由はおさせしませんから、別に億劫《おっくう》なお気持をなさらずに、胆吹山の別荘へ御隠居をなすったと思って、こちらの人におなりなさいな」
「お雪ちゃんに、そう言って口説《くど》かれると道庵たまらないね、ついふらふらと、その気になってしまうよ」
「その気におなりなさいまし、わたし一生懸命、先生を誘惑するわ」
「誘惑は驚いたね。だが、この年になって道庵も、お雪ちゃんのような若い娘に誘惑されるなんぞは嬉しい、嬉しい」
「先生がお連れになった、あの米友さんだって、もうこっちのものよ」
「そうして、我々仲間をみんな誘惑して、胆吹王国の一味徒党の連判状にしようなんて罪が深い!」
「ですけれど、むりやりに首に縄をつけてもというわけじゃありませんのよ、相当の理由があればいつでも組合を外《はず》れていいことになっておりますから、そこは安心して、ともかくも先生、少しの間この組合に入ってみて下さらない、わたしも、はじめのうちはあのお銀様というお方が、全く気の置ける、怖い、やんちゃな、我儘《わがまま》なお嬢さんだとばっかり思って、縛られたつもりでいま
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