納まってしまいました。
 そうこうしてお婆さんは湯槽から板の間に出ると、小桶に湯を汲んで自分の身を洗いはじめますと、いつのまにかお婆さんの後ろには与八が立っていて、
「お婆さん、流しましょう」
と言いました。
「済みませんねえ」
 お婆さんは心から感謝しつつ、それでも辞退はしないで、与八の方へ背中を向けていると、与八は和らかにお婆さんの背中を流しはじめたのです。
「ねえ、若衆《わかいしゅ》さん」
 いい心持になりながら、お婆さんは改まった調子で与八に問いかけましたから、
「何です、お婆さん」
「お前さんに一つ、聞きたいことがあるのですがねえ」
「わしにですか」
「はい」
「わしゃ何も知らねえでがすよ」
「聞きたいというのは、ほかのことじゃないがね、今、ここで見ていると、お前さん、わしの草鞋を棚へしまって下すって有難う」
「どういたしまして」
「その時に、お前さん、わたしの草鞋へ何か変なことをしやしなかったかね」
「なあに、別段、悪いことをいたしやしませんでした」
「悪いことじゃないよ、変なことをね」
「別に変なこと、何もしやしませんよ」
「そうじゃありませんよ、ちゃんと、こっちで見ていましたがね、お前さんは、たしかにわたしの草鞋を取り上げて押戴きましたね、草鞋というものはお前さん、足へ穿くものですよ、頭へ載せるものじゃありませんよ」

         八十六

「どうも済みませんことでございました」
と与八は、お婆さんに詰問されて、一も二もなくあやまってしまいました。
「いいえ、お前さんにあやまってもらおうと思って、わたしはそれを咎《とが》め立てをするのじゃありません、あんまり、することが変だから、ちょっと聞いてみたのです」
「どうも済みません」
「済むの済まないのじゃないですよ、どうして、お前さん、あんな真似《まね》をするんですか、それを聞いてみたいんですよ」
「別段、わけも学問もあるのじゃございません」
「でも、人のしないことをするからには、何かしくらいがなけりゃならないでしょう、隠さずに話してみて下さいよ、若衆《わかいしゅ》さん」
「どうも仕方がありません、こうなりゃあ、みんな申し上げちまいます」
と与八は、白洲《しらす》にかかって白状でもさせられるように、多少苦しがって申しわけをしようとする。お婆さんはそれをなだめて、
「いや、お前さん、なにもお前さんが悪
前へ 次へ
全276ページ中119ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング