》で、肉体をたっぷり漬っているのだから、まず誰もがするように、「いい体格ですねえ」とか、「たいしたかっぷくですねえ」とか、まず、感歎の声を放つのが例であるべきのに、この矍鑠たるお婆さんは、肉体のことなんぞはてんから問題にしないで、いちずに「いい人相」ということに感歎これを久しうして、それでも足りないで、「お前さんのような、いい人相を、今まで見たことがありません」と、最大級に附け加えたことです。
「へ、へ、へ」
 そうなってみると、与八も多少気恥かしいかして、こんどは眼を伏せて、郁太郎の肩を和《やわ》らかに撫で出しました。

         八十五

 やがてお婆さんは、いちいちその衣裳を解いて笊《ざる》の中に納めました。
 このお婆さんは、出入りばなに与八の人相をほめ上げただけで、この浴場に対してはなんらの挨拶をしませんでした。済みませんがどうぞ一風呂振舞っておくんなさいまし、ともなんとも言わずに、早くも衣帯を解いて入浴を試みようという態度は、当然入浴を為《な》し得る権利があるものかのように見えます。たとえ無料で施しのための湯であるとはいえ、何かそこには辞儀と挨拶がなければなるまいに、このお婆さんの態度が無遠慮なのは、故意にするわけではなく、多分、与八の人相そのものを鑽仰《さんぎょう》することに急で、挨拶の方も、お礼の方もお留守になっているうちに、すっかり忘れてしまったものでしょう。
 その時分に、与八はおもむろに湯槽から郁太郎を抱いて上って来ました。郁太郎の身体《からだ》を拭いて、着物を着せてやり、笊の傍に坐らせて置いて、自分は裸一つのままで番台の方へ行きましたが、土間を見ると、お婆さんの穿《は》いて来た草鞋《わらじ》が無造作に脱ぎ捨てられているのを見て、与八は、こごんでその草鞋を丁寧に取り上げると、それをじっと二つの手を以て押しいただいてから、傍らの番号を打ってある下駄箱の中へと納めました。
 その時分は、お婆さんの方は、早くも湯槽に身を漬けておりました。与八、郁太郎が上ってしまってから、湯槽の中はお婆さんの一人湯です。
 そこで、いい気持そうにお婆さんは唸《うな》りながら、面《かお》を拭いて、こちらをながめておりましたが、今、与八が自分の草鞋を押戴いて棚の中へ納めたのを見て、一時、眼を皿のようにしましたけれども、また、改めて、にっこりと心持のよい笑い方をして
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