。
そこで、こいつがこんなふうのしな[#「しな」に傍点]をしながら、女王の眼前を突切って、次の間を隔てる襖の前へ来ると、また御念入りにかしこまって、携えた売り物の一腰を敷居際へ置いて、例の白々《しらじら》しいせりふを並べ出しました、
「どうぞ、なにぶん御贔屓《ごひいき》にお買上げを願いたいもんで……しがねえ三下奴《さんしたやっこ》のために、路用のお恵みが願いたいんでげして。さいぜんもお聞及びでございましょうが、彫りと言い、こしらえと言い、要所要所はいちいち金むく[#「むく」に傍点]でございまして、いぶしがかけてあるんでございます、それに中身が備前盛光一尺七寸四分という極附《きわめつ》きでございます、出所はたしか過ぎるほど確かな物でございまして、どなたがお持ちになったからといって、かかり合いの出来るような品たあ品が違います」
八十
まだ中からも襖が開かず、こちらからもこれを押してみようとはしないのです。こうして、がんりき[#「がんりき」に傍点]の野郎は、図々しくも先方の出ようを見ていると、中で、
「ちょうどいいところだ、脇差が一本欲しいと思っていたのだ」
「いや、どうも恐れ入りました、こうすんなりお買上げが願えるとは有難い仕合せなんでございます、どうかひとつ、こしらえ、中身、お手ごろのところ、十分にお目ききが願いたいのでございます」
「見ないでもよろしい、中身は盛光だと言ったな、盛光ならばまず不足はない、置いて行かっしゃい」
「では、お引取りを願うことに致しまして……」
買手は置いて行けと言い、売方はお引取りをねがいましょうと言いながら、まだどちらからも襖を開こうとはしない。当然その仲立ちをすべきはずのお銀様も、事のなりゆきを他人事《ひとごと》のように見流しているだけで、あえて中に立って口を利《き》いてやるでもなければ、ましてや、わざわざ立ち上って隔てを開いて、取引の融通をつけてやろうでもない。
そこで、この場の空気はテレきってしまいました。テレきったけれども、その底には相当の緊張したものが流れている。三人ともに白けきったけれども、三すくみではない。それぞれ一歩をあやまてば取返しのつかない綻《ほころ》びが転がり出すことをよく心得ていながら、表面はテレきって、それを、何と取りつくろおうともしないところに、剣《つるぎ》の刃を渡るような気合がな
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