が、そのやはり申すまでもなく金無垢で……もちろん、これをお差料になすっていたお方のお家の御紋に相違ございません、この通り金無垢で、下り藤の定紋がこの鞘に一つ打ってござんす」
七十七
頬かむりの忍び男が、お銀様の眼の前に投げ出した脇差を指しながら、こんなことを言い出したので、お銀様が思わずちょっと向き直りました。
「なに、下り藤の定紋が?」
「はいはい、その通りでございます、お見覚えはございませんか――どうか篤とお手にとって御一覧を願いてえもので……」
「ああ、それは――」
とお銀様が、はじめて少し本気になったようです。ついにこのいけ図々しい奴の猫撫声に、どうもある程度まで釣られてしまったらしい。そうして、手に取ることこそしないけれども、改めてじっとその脇差を見詰めましたが、
「これは、わたしの父の差料に違いありません、それをどうしてお前が……」
「それそれ、そうおいでなさるだろうと、実は最初《はな》から待っていたんでございます――そうおいでなさらなくちゃなりません。いかにも、これは甲州第一の物持、有野村の藤原の伊太夫様の道中のお差料なんでございますよ。そうと事がわかりましたら、あなた様に相当のお値段でお買上げが願いてえ、なあに別段、いくらいくらでなけりゃあならねえと申し上げるわけじゃございません、お目の届きましたところで手を拍《う》ちやしょう」
「どうして、お前がこれを持っているのです、ところもあろうに、こんなところまでこれを持って来た筋道がわからない」
「へ、へ、へ、筋道とおっしゃいましても、甲州から諏訪《すわ》へ出て、木曾街道を御定法《ごじょうほう》通りに参ったんでございます、あなた様の親御様でいらっしゃる伊太夫様のお枕元から、このしがねえ三下野郎が直々《じきじき》に頂戴して参ったんでございますよ、どうかひとつ、思召《おぼしめ》しでお買上げを願って、それを三下奴の路用に恵んでいただきてえんでございます」
「どうして手に入れたか、それを言ってごらん」
「どうして手に入れたかってお聞きになりますが、これだけの品を頂戴いたすまでには、相当の苦心てやつもあるでござんしてな」
「それを一通り話してごらん、筋が立ちさえすれば、買ってあげないものでもない」
「実はねえお嬢様、あなたのお父様とお見かけ申して、こんな品物をいただくつもりじゃなかったんでござ
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