れは、ただ人間の面へ布を巻きさえすればよいというわけのものではない。覆面にも覆面の歴史もあれば、スタイルもある。同じものを同じように巻かせても、その人の人柄と、洗練とによって、都ぶりと、田舎者《いなかもの》ほどの相違もある。つまり着物にも着こなしの上手下手があって、同じものを着せても、その品に天地の好悪《よしあし》が出来ると同じことに、単に黒い布片を面に巻いただけのしぐさではあるけれども、そのまきっぷりにより、人柄そのものの活殺も生ずるというわけなのである。
ところで――この覆面の人の覆面ぶりは、かなり堂に入《い》っているものと見なければならぬ。今時の流行語をもってすれば、かなりスマートな覆面ぶりである。覆面をこの辺まで被《かぶ》りこなせることに於ては、相当その道の修練と技巧とを備えていなければならないので、どうかすると、覆面をしていない時よりは、覆面をしている生活の時間の方が長い、覆面界の玄人《くろうと》である。
七十三
日本覆面史の、最近の幾多の実例によって、この人の被っている覆面ぶりを一通り検討してみると――
頭に角《つの》のついた気儘頭巾《きままずきん》ではない。
眼のところばかり亀井戸の鷽形《うそがた》に切り抜いた弥四郎頭巾でもありようはずがない。
弥四郎頭巾の裏紅絹《うらもみ》を抜いた錣《しころ》頭巾でもないし、そのまた作り変えの熊坂でもない。
錣のついた角《つの》頭巾でもなければ、しころなしの絹頭巾でもない。
紫ちりめんの大明《だいみん》頭巾でもなし、縞物の与作頭巾でもない。
大阪風の竹田《たけだ》頭巾でもなく、二幅錣《ふたのしころ》の宗十郎頭巾でもない。
直角的な山岡頭巾でなく、曲線的の船底頭巾でもない。
猫頭巾――抛《なげ》頭巾のいずれでもなく、まして女性の専用とした突※[#「「灰/皿」」、第3水準1−88−74]《とっぱい》頭巾のいずれでもなく、近代形の韮山《にらやま》頭巾でもない。
本来これは、どの形、どの式といって作ったものではなく、単に有合せの織物をとって、これを適宜に切らせて、独流に巻き上げたもの、その形から言ってみれば、ここから程遠からぬ叡山《えいざん》の山法師の初期に於て流行した、あの「裹頭《かとう》」という姿が最もよくこれに似ている。
物ごとはすべて、習うよりは慣れろですから、頭巾の巻き
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