か、或いは出動か。

         七十二

 今まではお銀様の居間の方の場合からのみ写しましたが、今度は改めて、隣室の方へ舞台を半ば廻してみましょう。
 その室もやっぱり、だだっ広い、古びきった宿屋というよりは、古いも古い、徳川期を越した太閤の長浜時代の陣屋とか、加藤、福島の邸あとの広間とかいったような大まかな一室なのです。
 そこの一隅に、もはや寝床がのべてあって、六枚折りの屏風《びょうぶ》が立てかけてある。こちらにもお銀様のと同じような火鉢があって、炭取も備わっている。机は隅の方に押片附けられて、座蒲団《ざぶとん》が真中のところに敷かれているが、その火鉢と座蒲団の程よきところに、丈の高い角行燈が一つ聳《そび》えている――という道具立てなのですが、これが、はっきり見えるというわけではありません。その行燈には灯《ひ》が入っていないのみならず、お銀様との隔ての襖もあいていないから、光というものは、ほとんどこの部屋に本来備わっていないところへ、外界からも漏れて来ないから真暗なのです。
 その真暗なところへ、さいぜんから音もなく、真黒いいでたちの人が、風のようにひっそりと入って来て、火も掻《か》き起さなければ、燈火《あかり》もつけないで、隣室との応対をつづけているのですから、やっぱり光景そのものからいうと、黒漆崑崙夜裡《こくしつこんろんやり》に走るとか、わだかまるとか言うべきもので、何にもないところに声だけがあるようなものですが、小説の描写のためから言えば、はっきりと、それを写し出さないわけにはゆかぬ。
 今、この黒漆の室にいる黒衣の者の姿は、昨晩、大通寺の玄関の松に近く、幼な児の捨てられているところで、鬼女を引きつけたところの第二の悪魔――第三の悪魔としての餓えたる犬と戦ったあれです。
 大小二つの刀は、手を差延べれば届く床の間の刀架にかけて置いて、自分は、火鉢を前に、行燈を左にして坐ったままで、さきほどからの会話をつづけているのでしたが、この会話の間も、やっぱり覆面を外すことはしませんでした。
 二つの室に相隣りして、無作法な男女が二人控えている。姿形こそはいずれも崩れてはいない。無作法とも、だらしがないとも言えないけれども、室内にあって、この夜中にまでも覆面を取らないですまし込んで会話をつづけている点だけは両々相譲らないのです。
 一口に覆面というけれども、そ
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