っぷりにしてからが、ああもしたら、こうもしたらと、見え[#「見え」に傍点]に浮身をやつすよりは、数を多くかぶるに越したことはない。数を多くかぶっていさえすれば、ことさらにスマートを気取らなくても、一見して整った形になり、整った揚句に、ちょっと人を魅する姿勢が出来てくる。
これはあえて頭巾のかぶりっぷりに限ったことはあるまい。手拭一つ被《かぶ》らせてみたところで、野暮《やぼ》と粋とは争われない――況《いわ》んや大機大用に於てをや――というわけだ。
そこで、この人の覆面ぶりは慣れて、おのずから堂に入ったものがある。この点に於てはお銀様とても同じことです。二つながら、晴れてはこの眉目を世に出すことを好まざるもの、覆面を通してはじめてこの世相を見ようとも、見まいともしているもの。
暫くして、この覆面の男は、手をさしのべて、床の間の刀架から一刀を取外して膝に載せました。一刀といっても、わけて言えば小の方、或いは脇差の方といってもよろしいかもしれない。厳密に言えば、刀に対しては脇差といえる。大小を一対として分離し難いものとして見れば、その小の方だけを取って膝の上に載せました。
膝の上に載せると、やおらこれを引抜いてしまうと、いつのまに用意してあったか、傍らの乱れ籠の中から一掴《ひとつか》みの紙を取り出して、左に持ち換えて引抜いた脇差の身へあてがうと、極めて荒らかにその揉紙《もみがみ》で拭いをかけはじめました。拭いをかけるというよりは、紙をあてがって荒らかに刀を押揉んでは捨て、揉んでは捨てているようです。脇差一本を拭うとしては、荒らかな、そうして夥《おびただ》しい揉紙を使用して、その使用した揉紙をけがらわしいものでも捨てるように傍らへ打捨てて、次の紙を取り上げ、取り上げ、刀身を揉み拭うている。
特にこういう神経的の挙動にも相当理由のあることで、これは昨晩、思いがけずこの脇差一本で幾頭かの餓えたる犬を斬りました。畜生の血が残っている。それを揉み消し拭き消さんがために、かくも必死に、しかも相当神経的に刀身を拭っていると見るべきでしょう。
七十四
そうしているうちに、不意に一方の廊下でミシという音がしました。
僅かにミシという音だけでしたけれども、その気配は猫でもなければ鼠でもない、まさしく人間であって、板を踏む気配でありますから、その気配にお銀様も
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