らに現われたそれが、すばらしいのです。行成の仮名の線にのみ存するところの斬鉄《ざんてつ》の鋭さが、そのままに現われている。古来、これほどに、さながら行成の骨法を現わした文字は無い――と、見る人が見れば驚歎するかもしれないが、お銀様としては、自分で書いた文字に自分で己惚《うぬぼ》れている余裕はない。
すべて、芸術というものは、自分のものした芸術に、自分で惚れ出したらもうおしまいです。
お銀様は、自分のものした文字の出来が、今晩はそれほど神《しん》に入《い》っているということを自覚もなにもしないで、そのままポンと机の左上隅の方に置据えて、これを明朝になったら胆吹の山の留守師団長なる不破の関守氏の許まで届けさせる。
それだけの手軽い動作で、次に硯《すずり》の蓋をしにかかりました。硯箱も、蒔絵も、相当時代ものではあるが、お銀様は無意識にその蒔絵模様に眼を落しながら、硯の蓋をしてしまうと、はじめてホッと軽く息をつきました。
さきほどから、吠え連ねていた犬の遠吠えが、いつのまにか送られて、ついこの宿の裏まで来ている。
七十
お銀様が、ふっと振返ると、自分の後ろの廊下を人が通りました。
「お帰りになりましたか」
もう充分の心得があって、水の流るるが如き応対。
「は――」
と、お銀様の後ろの廊下を通り魔のように通るところの者が、軽い咳と間違えられるほどの応答で、通り過ぎてしまいました。
後ろには秋草を描いた襖《ふすま》がある。それを隔てての問答だから、そちらの姿は更にわからない。
だが、そのまま次の室へと歩み入って、そこへ、極めてしとやかに身を置いたことだけは確かです。
してみると、この場には、お銀様と隣り合ってもう一人の客がいたのだ。その客が、多分、宵の口から外出していたものだから、このすべてがお銀様一人の舞台として占められていた感じでしたが、たとえ室を別にしたからといって、相客があったこととして見ると、全体の風情がまた一変しないでもない。しかし、双方ともに熟しきっていると見えて、いよいよ静かな応対のみであります。「お帰りになりましたか」「は――」これだけの問答で、あとはまた、全く静かな深夜の空気を少しも動かすではありません。
しばらくすると、その隣室でカチリと物音がしました。刀の音です、刀の鞘《さや》の音なのです、刀の鞘がちょっと物に触
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