これも欲しいものです。こういうものをすべて譲り受けて、わが胆吹王国で正当な認識の下に保管をしたい。
それから……」
[#ここで字下げ終わり]
 お銀様が書を進むると共に、夜が更けて行きましたが、遥かに犬の遠吠えが聞えて来ました。

         六十九

 お銀様が、こうして夜更けるまで手紙を書いていると、長浜の町の一角から、犬の遠吠えが聞えました。
 犬の遠吠えというのはさして珍しいことではないが、その遠吠えを聞くと、お銀様が筆を机の上にさし置いて、そうして耳を傾けました。
 思いの外、夜は更けている。時計というものはないから確《しか》とは言えないけれども、夜半を過ぎていることは疑いない。一通の手紙を書くために、どうしてこんなに時間を取られたろうと思うほどでした。巻紙を翻して見るとなるほど――書きも書いたり、長浜見学の印象から、太閤時代の歴史から、人物から、かなり細々《こまごま》と認《したた》めたものだと思い、更にそれを巻き直しながら、耳を澄ましていると、犬の遠吠えが追々に近くなるのに気づきました。
 それは、最初に吠え出した一箇の犬そのものが、影を追うてこちらに近づきくるのではなく、一箇の犬が物におびえて遠吠えを試みると、それから次々に影を見ない犬までがその声を迎えて吠えつぐものですから、それで遠吠えが次第次第に近くなって来るというわけなのです。
 ちょうど、宿つぎに犬が鳴き渡っているようなもので、すべて眠りに落ちている町の人は、誰も気づきませんけれど、お銀様だけが、長い手紙を書きながら、その鳴きつれる犬の声に耳を傾けておりました。
 お銀様は、手紙の上封じをして、それに、「不破の関守殿、まいる」と書きました。そうして、自分の名のところへ、「しろかね」と、行成様《こうぜいよう》の仮名で達者に認《したた》めました。それを見ると、素晴しい筆勢だと思わないわけにはゆきません。
 行成を学んでも、その骨法をうつし得るものは極めて稀れです。大師の文字に入木《じゅぼく》の力がありとすれば、行成の仮名には骨を斬るの刃がある。お銀様が、今ここにかりそめに書いた「しろかね」の文字は、けだし、己《おの》れの名とするところの「銀」の一字を和様に洒落《しゃれ》たものであることは疑うわけにはゆかないが、さっ! と一筆に横なぐりに刷《は》いた筆線に、行成の骨法が、故意か、偶然か、さなが
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