壁は壊れます。画も損傷してしまうでしょう。それが残念ですから、わたくしは寺を去りました。
そうして今もそのことを頻《しき》りに考えたのですが、ここに一つの工夫を考えつきました。あれは建築そのものが秀吉の桃山城の御殿をそっくり移したのです。それにあの通り、山楽の壁画でしょう。これを今のうちにどうかしなければ――そう考え考えて来ているうちに考えついたのはどうでしょう――あの御殿そっくりを、お寺から譲り受けることはできないものでしょうか。譲り受けて、丹念に取毀《とりこわ》し、そうして我々の胆吹山麓、上平館《かみひらやかた》の王国の中へそのまま移し換えることはできないものでしょうか。
そのことを、ひとつ伝《つて》をもってあなたからお寺の方へ交渉をしてみていただくことはできますまいか。
あのお寺の財政状態は存じません。檀家の人たちの意志も全くわかりませんけれど、あれをあのまま荒廃せしめるくらいなら、わたしたちで引受けてしまいたい。お寺によっては、ずいぶん話のもちかけ方によれば、存外宝物を手放さない限りもないと聞きました。大和の奈良の興福寺の五重塔なども、すんでのことに取りこぼち、二束三文の値段で売り払われるところであったと聞いたことがあります。わたくしは、あの大通寺の桃山御殿がそっくり欲しくなりました。果してできるかできないかわかりません。あなたには責任は負わせませんから、ひとつ交渉だけをしてみていただけますまいか――それと」
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 果然――お銀様もまたロマンチストでありました。これはショーウインドーの前で宝石に憧《あこが》れるのよりは規模が少し大きいようです。こういう希望をいったい誰に向って書き述べているのだか、その相手は、想像するまでもなく、上平館の留守に残して置いた参謀長、不破の関守氏以外の何人でもありようはずはない。
 長浜へ着いて、浜縮緬《はまちりめん》の柄が気に入ったから欲しいと言わず、桃山城の御殿と、山楽の壁画を、そっくり買いたい――それがお銀様らしいと言わなければならぬ。
 で、それからなお続けて書いた文字によると、慾望はそれだけに止まらない。
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「なお、わたしは知善院というのへ行ってみようと思います。そこにまた由緒の確かな豊臣秀吉の木像があり、それから、天下にただ一枚といわれる淀君自筆の手紙もあるそうでございます。
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