れて鳴る音なのでした。
 つまり、宵の口に出て、今時分になってこっそりとたち帰り、四方《あたり》の空気を驚かすまいために、出入り、立居ともに極めて静粛であったのですから、そのささやかな刀の鞘のカチリという音だけが鮮かに聞えたのですから、これは刀を腰から外《はず》して、そうして刀架へでもちょっと移す途端のさわりであったらしい。
 それからまた静かになると、お銀様の方もまたいよいよ静かなもので、机に向ったまま動こうともしなければ、二の句をつごうともしないのです。
 しかし、いつのまにか、鳴きつれて来た犬の遠吠えの次第送りは止んでいました。
 お銀様の部屋には、こうして時代のついた丸行燈《まるあんどん》が明々とともっている。桐の火桶の火もさびしからぬほどに生かされているのに、隣の室には明りがない。
 こうしているお銀様は、申すまでもなく覆面をとっていないのです。お銀様の覆面は、一時流行したお高祖頭巾《こそずきん》といったあれなのです。黒縮緬を釣合いよく切らせて、上手に巻いている。寝るから起きるまでの間、お銀様の面《かお》から覆面のとれたのを見たものはほとんどない。ことによるとこの人は寝る間もなお、この頭巾を取らないのかも知れない。この人は、母の胎内から頭巾を被《かぶ》って生れ出たのではないかと疑う人さえあるかも知れない。
 お銀様が、今は燈火に面をそむけて、しなやかな手を首筋に当てて、おもむろに頭巾を解きにかかりました。多分、あの辺に手をやるからには、頭巾の結び目をさわるために相違ない。そういうしぐさをしながら、
「いかがです、今晩は収穫がございましたか」
と、次なる部屋の方へ、水の滴るように穏かな声でといかけました。
「ははは」
と、隣からは軽く、笑うでもなく、さげすむでもない返事。続いて、
「駄目だ――」


         七十一

「いけませんでしたか」
とお銀様の声――まだ頭巾は外していないのです。
「いけないね、犬が邪魔をして」
と、これは隣室の返事。そうすると透かさずお銀様が、
「そうでしょうとも、昨夜からの犬のなき声が変だと思いました」
「変だ、変だよ、どうも犬が……」
「お気の毒ですねえ、あなたも焼きが廻りましたね、犬に邪魔されるようになっては」
「いや、上方《かみがた》の犬はまた格別だ」
「なに、格別なことがあるものですか、同じ畜類ですもの、犬がいけ
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