太夫の位の下に隠形《おんぎょう》の印《いん》を結んだかと思われる。
 ですから、犬も、この第二の悪魔をば問題にしないで、三々五々、鼻を鳴らしてのそりのそりとやって来るが、その鼻先が、どうしても松の根方から離れない。
 やがて、先頭をきった餓えたる犬が、例の棄子の幼な児の籠のほとりまで来ると、にわかに鼻息が豚のように荒くなると共に、その荒い鼻息が、泣き倦《う》み、笑い倦んで、ようやくすやすやと夢に入りかけたところの幼な児に向って吹きかけました。そうすると、続くところの三々五々の野良犬が、一度に鼻を鳴らして幼な児の籠を取囲みました。

         六十二

 それからあとは惨澹《さんたん》たるものであります。おしゃぶりも、ピーピーも、風車も、でんでん太鼓もケシ飛んで、ミルクであり、摺粉《すりこ》であるべき徳利はくわえ出されて、その余瀝《よれき》が餓えたる犬の貪《むさぼ》り吸うところとなりました。
 幼な児は、ここで火のついたように泣き叫びました。
 今まで、笑うにしても、泣くにしても、いちいち気分本位でありましたが、今後のはそうではないのです。自己の生存を直接に脅される危険からの号泣でしたが、相手はそれを頓着すべき動物ではありませんでした。
 この分でいれば、幼な児の食いごろな肉体そのものが、忽《たちま》ち貪る犬の餌食に供されてしまう。犬は穀食動物であって、肉食動物でないという通則は、餓えたる場合は通用すまい。
 幼な児は、その生存の危急のために号泣しました。餓えたる犬は、その生存の必要のために幼な児を食おうとする。群がって、なぶり食いに食おうとする。
 その時に、松の根方に彳《たたず》んでいた第二の悪魔も、こらえかねてかちょっと身動きをしました。身動きをすると共に、平静なる呼吸が崩れたのです。当然その身体が餓えたる犬の方に向ってのしかかりました。これは悪魔といえども見過しはできないでしょう。抵抗力のない人類の一箇が、餓えたる畜生のために犠牲にあげられようとする。たとえ悪魔ではあり、夜叉《やしゃ》ではあろうとも、苟《いやし》くも人間の形をしている以上は、人間の権威のために、これを見殺しにはできまい。
 果して黒衣覆面の第二の悪魔は、存在を超越した松の木の中の存在から、呼吸を外して、そうして、幼な児の籠を囲んだ餓えたる犬の方に向うと、その覆面は竹の杖を携えていたので
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