クロク慰めの言語さえ言わなかったものですが、当人の悄気方《しょげかた》は非常なもので、
「旦那様、どうも済まないことを致しました、明日は早立ちと思ったものでございますから、宿の雇人衆と一緒にお帳場の傍へ寝《やす》ませてもらいましたのですが、とうとうやられてしまいました、申しわけがございません」
その謝罪の仕方も、かなり大仰でしたが、伊太夫は是非もないという思入れで、
「よしよし、金だけだろうな、ほかに盗られたものはあるまいな」
「あの鬱金木綿の胴巻だけでございます」
「そうかそうか」
身内でも軽くあしらっているので、果してその胴巻の中にいくらあったかというようなことは、てんで問題にするものもなかったのです。また、下男の財布のことですから、問題にすべきほどのことではなかったに相違ないが、そのあわてぶりと謝罪ぶりの大仰なことだけが、宿の人たちを異様に感ぜしめました。
四十八
これは申すまでもなく、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵というやくざ野郎のした、行きがけの駄賃に相違ないのです。
その夜中ごろ、天性の怪足力に馬力をかけて、一足飛びに関ヶ原の本陣から程遠からぬ美濃と近江の国境、寝物語の里まで飛んで来たがんりき[#「がんりき」に傍点]の百の野郎は、案内知ったる寝物語の里の近江屋の方の雨戸をトントンと叩いてみると、それに手応えがありました。こんな深夜に、このささやかな合図で忽《たちま》ち手応えのあるところを以てして見ると、先方も相当に待つ身ではあるらしい。
「まだ起きていたのかい」
戸がそっと細目にあけられたので、そこから吸い込まれるように中へ身を消したがんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、中へ入って畳の上へ足を投げ出すと共に脚絆《きゃはん》をほぐしかけると、行燈《あんどん》をかき立てて、そこへ、しどけない上にしどけない寝巻姿の淫婦お蘭が、くの字になって現われ、五分|珠《だま》の銀のかんざしで、やけに頭をかきながら、
「待ってましたよ、あんまり遅いじゃないかえ」
「今日の晩までという約束だから、真夜中が過ぎちゃ男がすたると思って、急いでやって来たよ」
「御苦労だったねえ、頼まれもしないのに」
「おや? 頼まれないでする心意気を買っちゃあくれねえのかい」
「買いますとも、買い過ぎて、つい、あれもこれもとよけいな取越苦労をしながら待ちく
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