夜をひとりかもねむ
[#ここで字下げ終わり]

         四十七

 伊太夫の座敷に於て紛失したものは、上代瓦を入れた箱入りの包だけでありました。ほかにはなんらの被害はなかったのですが、これは、床上の髑髏が呑んでしまったわけでもなし、定九郎鴉が啣《くわ》えて行ってしまったのでもありません。主人の言うところの如く、湯殿の戸締りの用心の足りなかったのを利用して忍び込んだ盗賊の為す業でありました。
 伊太夫は宿の主人のために、それを気の毒がって弁償しようと言いましたが、主人は事もなげにそれを辞退して申しました、
「なあに、申せば瓦っかけでございますからな、値につもっていただくわけには参りません、もともとこっちの戸締りの用心が足りないせいでございまして、申し訳のない次第のものでございます、ほかに何もお怪我がなくて、それが何よりの仕合せでございます」
と言って、どうしても弁償を取ることをうけがわないのです。
「瓦っかけと言ってしまえばそれまでだが、あれで好事家《こうずか》の手にわたると、相当|珍重《ちんちょう》の品なのだ、それにあの箱が珍しいと思いましたよ」
「いや、手前共では、その道の熱心家が御所望でしたら、只《ただ》で差上げてもよろしいと存じていた品でございます」
「盗んだ奴は、あれを持って行っても始末に困るだろう、もしな、御主人、帰りまでにめっかったら、わたしが所望いたしたい」
「よろしうございますとも。全く仰せの通り、盗んだ奴も、あれを持って行ったところで、それこそあけて口惜《くや》しき、というところでございましょう――いずれその辺に放り出してあるかも知れません。時に、お連衆《つれしゅう》のお方にも御異状はございませんでしたか」
 伊太夫が引連れて来た四人の同勢のうち、三人までは、伊太夫の部屋を守護するような陣形で別室へ寝ましたが、これらはなかなか用心が厳しくて、寝ている間も油断がなかったのかどうか、更に被害の形跡もありませんでしたが、その最後の下男の茂作が、この騒ぎにまだグウグウと眠っている。
 これを起して見ると、こいつが鬱金木綿《うこんもめん》の胴巻がないといって急に騒ぎ出しました。命から二番目のものを取られたほどに騒ぎ出しましたが、宿の者は、あんまり問題にしませんでした。
 この男の胴巻では、取られたところで知れたものだと、頭から見くびってしまって、ロ
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