酒が尽きた。
「丸山――おれは死ぬぞ、どう考えても生きる口実を見失ったから、これから本当に死んで見せるのだ、検視をつとめさっしゃい」
と言って仏頂寺弥助は、着ていた羽織を脱ぎにかかりました。
「本当に死ぬのか」
「うむ――見ていさっしゃい」
「冗談じゃなかろうな」
「冗談から駒の出ることもある、いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原の時だってそうだ」
「今は、どうするつもりだ」
「どうもこうもありゃせん、お前は、ただ黙って最期《さいご》を見届けていさえすりゃいいんだ」
「仏頂寺、いやに真剣だな」
「真剣だとも」
 羽織を脱ぎ終った仏頂寺弥助は、それを草原の上に敷いて、その上に、草鞋《わらじ》をぬいでどっかと座を占めたものです。
「仏頂寺、変な真似《まね》をするなよ」
 丸山がようやくあわてだしたが、仏頂寺弥助はそれに取合わないで、その次の仕事が内ぶところへ両手を入れ、おもむろに諸肌《もろはだ》を脱いでしまったところです。
「風邪をひくよ、風邪を、変な真似をするなということよ」
「いいから、黙って最後まで見届けるんだ」
「な、なにをする!」
 丸山勇仙が、非常に狼狽して仏頂寺の膝にとりついたのは、彼が第三次の事業として、畳紙《たとう》をひろげて二つに折り、それから刀を取って膝の上に置き、やおら鞘《さや》を外《はず》してしまって、その程よきところを畳紙に持添えて構えたのが、どうしても切腹に取りかかるもののふ[#「もののふ」に傍点]の作法とよりほかは受取ることができないので、丸山勇仙が眼の色をかえて仏頂寺の膝にとりついた時に、仏頂寺は、
「何だ、丸山、貴様とめるつもりか、拙者が覚悟をきめて、尋常に死にくたばろうとするのを見て、いまさら貴様が留立てをしようとするのは奇怪だ、留めるなら留めるだけの意義と理由を以て留めろ」
 仏頂寺弥助が傲然《ごうぜん》と叱咤《しった》するのを、丸山勇仙はテレきって、
「意義も理由もありゃしない、予告なしに眼前で腹を切ろうという奴を、友人の身として見ていられるか、いられないか。僕に向って留めだてをする意義と理由とを求める前に、仏頂寺――君はなぜ、今になってそう急に腹を切らなければならないのか、かえってその意義と理由を示せ」
「その意義と理由がわかるくらいなら、腹を切りゃせぬ、それがわからないから腹を切るのだ、貴様、留めるのなら留めるでいいが、これからさき仏頂寺弥助が、何故に生きていなけりゃならんか、その講釈をして聞かせろ」
「むずかしいことを言うなよ、いま死ぬくらいなら、もっと早く相当死場所もあったろうじゃないか、ここまで来たんだから、もう少し延ばして、相当準備をととのえてからにしちゃあどうだ、相当の準備期間を……」
「生きて行くには相当の準備もいるだろうが、死ぬに準備は要らない、出たところ勝負で結構」
「だって、そりゃ、あんまりあっけないこった、せめて――明日まで延ばしてくれよ、明日まで……明日になると、また何か風向きが変らぬとも限らん。仏頂寺、貴様は今、不意に死神《しにがみ》にとりつかれたんだ」
「は、は、は、死神にとりつかれたんじゃない、死神を出し抜いてやるのだ、死神という奴は、いつも人を出し抜いて狼狽《ろうばい》さすから、今日はひとつ、仏頂寺が先手を打って死神を狼狽させてやるのだ――は、は、は、丸山、そういうお前の面に死神がのりうつっているよ」
「冗談いうない、冗談いうない、おりゃまだ死ぬのはいやだよ」
「だから、生きて、介錯《かいしゃく》を頼むとは言わない、仏頂寺の最期を、おとなしく、ちゃんと見届けていてもらいたいのだ。さあ、もう覚悟はきまった、放せ、放せ、離れていろやい、丸山勇仙――」
「だって仏頂寺、二人ともに影の形に添うが如く、これまで来て、それを両人覚悟納得の上なら知らぬこと、今日突然、貴様だけが死ぬというのに、この丸山が指をくわえて見ていられるか」
「見ていられなけりゃ、どうするのだ」
「どうするったって、まあともかくも一応、思い留まってくれ給えよ」
「思い留まれねえ、こうなって思い留まれる仏頂寺だと思うか。思い留まらないときまった上は、貴様はどうする……」
「どうするも、こうするもありゃしない。腹を切ります、はいお切りなさい、友人としてそれが言えるか、言えないか……」
「言えなけりゃ、どうしようというのだ、一匹一人の男が死のうと覚悟したものを、貴様の痩腕《やせうで》でどうしようというのだ」
「理窟を言うなよ、理窟を――」
「理窟ではない、貴様がどうしても無用の留立てをして、ここで拙者の往生際《おうじょうぎわ》を邪魔立てしようというなら、してみろ、足手まといの貴様から先に叩き斬り、仏頂寺は心置なく腹を切って死ぬまでだ」
「いやに恐《こわ》い目をするじゃないか。仏頂寺、君がそれほどまでに死にたくなったんじゃ是非もない、いかにもおれの痩腕じゃ、仏頂寺の死際を取抑えるわけにいかんのはきまっている」
「だから、おとなしく、それに坐って、拙者の腹の切り方と、往生際を、またたきもせずに見届けていることじゃ」
「じゃといって――友達が死ぬのを、いい気でおとなしく、眺めちゃあいられまいじゃないか」
「なあに――生《なま》やさしいのが、じたばたするんじゃない、仏頂寺ほどの亡者が、得心ずくで腹を切るのだ、見ているうちには胸が透いてくるよ」
「ばかな――なんらの意義も理由もなく、友達が腹を切る、よろしいお切りなさい、拙者が傍から切りっぷりを拝見なんてすましていられるか」
「すましていられなけりゃ、濁ってなりと、かぶ[#「かぶ」に傍点]ってなりと見ておれ、そんなことにかかわっちゃおられん。どーれ」
 仏頂寺弥助は、ついに長い刀の物打《ものうち》の上あたりを半紙で掴《つか》んで、左の手で襟を押しひろげて、その腹を撫ではじめました。
「仏頂寺――」
「何だ、泣き声を出すな、不祥な声を出すと、仏頂寺が冥途のさわりになる」
「まあ、仏頂寺――」
「何だい、今となって、仏頂寺、仏頂寺と言うない」
「まあ、仏頂寺、もう少し待ってくれ、留めるんじゃない、おれにも少し了見があるから、もう少し待ってくれ」
「何だ、貴様の了見というのは……」
「仏頂寺、実はな、おれも一時は面喰って、お前の最期を留立てをしてみたんだが、よく考えてみると、こっちも御同然の身の上だったんだ、お前が生存の意義と理由とを見出し得ない如く、この丸山勇仙も、そんなものが見つけられないでうろついているのだ。だから、お前がその理由によって死ななければならないとすれば、この丸山勇仙も、残って生きていなけりゃならん必要と意義とが無いのだ、それを今やっと考えついたのだ」
「そうだ、貴様だって、これから生きのびて尊王攘夷をやるという柄でもなし、新撰組に加わるという柄でもないのにきまっている」
「そこでだ――お前が死ぬとなれば、おれも死ぬ――と、なぜ最初から言えなかったのか、それが考えてみると不思議だ」
「うーむ」
「だから仏頂寺――留立するなあ、愚劣千万だったよ、お前が死ぬんなら俺も死ぬよ、もう、明日だの、一時待てだのなんて言やしないよ、今日、この場で、お前と枕を並べて死ぬのが、当然過ぎるほど当然たる容易《たやす》い仕事であったのだ、当然そう行かなけりゃならないはずのを、なぜ、みっともない狼狽《うろた》えぶりをして見せたのか、今となって不思議だ、多分お前の言う通り、先手を打たれた死神の奴が狼狽して、お前にはとりつけないから、おれの手を借りて、お前の勝利を攪乱《こうらん》しようと企てたのだろう、もう、わかったよ、死ぬよ、お前と一緒に、おれもこの峠の上で、今日只今、死んで見せるよ」
「は、は、は、は」
「お前だって人の留立てを差しとめておきながら、おれの死ぬのをよせとは言えまい、おれだって影の形に添うが如く、これまで亡者うろつきにうろついて来て、お前を死なして、これからひとり旅ができるものか、できないものか、つもりにもわかりそうなものだ。そのつもりにもわかるべきことが今までわからなかった、死神めに攪乱されていたのだ」
「そう事がわかったら、おたがいに、生の自由と死の自由を尊重することだ」
「善は急げだ――話がきまったらぐずぐずしないがいい。ところで、仏頂寺、お前は剣を以て世に立って、剣で果てるのだから切腹が当然だが、僕の方はそうはいかない、剣道が本職ではなし、万一切り損なって、お前に最期の道を先立たれ、あとからのたうち廻って追いかけるなんぞは醜態千万だから、こういう時の用心に、僕は僕だけの死に方がちゃんとあらかじめ附いているのだ」
「そうか」
「僕は、かねてより今日あることを慮《おもんぱか》って、ここにこれ、舶来の硫酸という劇薬が一瓶仕込んである、これを、ちょっとあおると五臓六腑が焼け爛《ただ》れて、完全に生命が解消される、腸《はらわた》を沁《し》み込んで行く間はかなり苦しいそうだが、切腹とどちらか、その苦痛の程度の比較は知らないが、やり損いなしに死ぬることは請合いなのだ、そこで、君が腹へ刀を突き立てると同時に、こいつを僕が一滴ずつ口中へ垂らし込む」
と言って、荷物の中からグロテスクな小瓶を出して見せる。
「うーむ、面白いな、貴様もなかなか馬鹿でない」
「話がきまったら、心静かに――しかし、善は急げだ」
 こう言って、丸山勇仙は毒薬を下に置き、仏頂寺と同じように、羽織を脱いで草原の上に敷きました。

         十六

 やがて、仏頂寺が刀を腹へ突き立てると同時に、丸山勇仙が小瓶を口にグッと仰ぎました。
「仏頂寺、痛いだろう」
「うむ――」
と言いながら仏頂寺は、その刀を引き廻し、
「丸山、薬は、薬は利《き》いたか」
「まだ何ともない、痛みの至る程度から言えば、お前のとは比較になるまい、あ、それにしても胸が変だ、腹が痛い」
「しっかりしろ」
「仏頂寺、痛いだろう」
「そりゃ、痛い、腹も身のうちと言うからな」
「我慢しておれも……」
 この時分に、丸山の腹に硫酸が浸漸《しんぜん》をはじめたらしく、
「苦しい、思ったより苦しい!」
と叫びましたが、
「がんばれ!」
と仏頂寺が声をかけると、丸山は、
「ああ、この苦しみは別だ、まるで五臓六腑が焼け出したようだ、噴火山から熔岩が流れ出して村里をのたうち廻るように、腹の中を熱いものが引掻《ひっか》き廻す、仏頂寺、おまえのも楽じゃあるまいが……」
「楽じゃない――」
「俺のは苦しい、同じことなら、腹を切るんだった、こんなに……毛唐《けとう》の薬がこんなに利くとは思わなかった、苦しい!」
「愚痴を言うな」
「たまらない――誰か早く引導を渡してくれ」
「我慢しろ」
「うむ――」
 丸山勇仙は、しっかりと大地につかまって堪《こら》えている。仏頂寺は全力をこめてキリキリと刀を腹の中へできるだけ強く突きこんで引掻き廻してえぐりながら、苦しがっている。でも、丸山勇仙に同情するの余裕がいくらか残っていると見えて、
「丸山、苦しまぎれに、さっきのあの受け渡しをもう一ぺん繰返せ、それが引導だ」
「ううむ、ううむ」
「いいか、斎藤篤信斎は……剣術をつかうために生きている」
「うーむ、高杉晋作は……尊王攘夷の……ために生きている」
「徳川慶喜は……」
「うーむ」
「小栗上野は……」
「うーむ」
「勝麟は……」
「うーむ」
「岩倉は……」
「うーむ」
「土佐と、肥前は……」
「うーむ」
「会津、桑名は……」
「うーむ」
「そうして、仏頂寺弥助と……丸山勇仙は……何のために生きているのだ」
「うーむ」
「うーむ、何のために……」
「うーむ、生きている……」
「うーむ、松茸の土瓶蒸を……」
「うーむ、食うために……」
「うーむ、うーむ」
 ここで、ついに二人の舌が硬《こわ》ばって、呂律《ろれつ》が廻らなくなり、丸山勇仙はもう受け渡しどころではなく、そこらをのたうち廻って苦しみ出したが、仏頂寺の気はなお確かで、存分に腹をえぐって上へハネ、やがて刀を返して咽喉《のど》へ持って行って、一気に咽喉笛を掻切ってしまったから、万事はおしまいです。
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