土瓶蒸と聞いちゃ、こてえられねえ」
 仏頂寺は仏頂面《ぶっちょうづら》をしながら、でも、松茸の土瓶蒸がまんざら[#「まんざら」は底本では「まざら」]でもないと見えて、しぶしぶ引返して行くのです。

         十三

 仏頂寺が以前の地点へ立戻って見ると、丸山勇仙は、もうかいがいしく料理方を立働いている。
 なるほど、土瓶蒸の献立がすっかり出来上っている。原料の松茸は、途中こころがけて山路で採集して来たものであろうし、それを土瓶に仕かけて水を切って、火を焚きさえすれば口へ運べるようにととのえて持って来ているらしい。
 おまけに彼は一瓢《いっぴょう》をも取り出して、そこへ並べてあるのは、松茸の土瓶蒸だけでなくて、紅葉《もみじ》を焚いてあたためるの風流にも抜かりがないとは、なんと優しいことではないか。
 仏頂寺はそれを見ると、相当に仏頂面をほぐして、草を褥《しとね》にどっかと腰を卸したところへ、如才なく丸山勇仙が猪口《ちょこ》をつきつけました。
「松茸の土瓶蒸で一杯やるかな――」
 仏頂寺が仏頂面に涎《よだれ》を流してそれを受ける。
 かくして二人が、土瓶蒸を肴《さかな》に、とりあえず一杯ずつの毒味を試みている。
 旅に慣れた彼等は、即席の調理方に要領を得ている。小鳥峠の上を会席の場として選定したこともまた、ところに応ずの要領を得ている。
 かくて彼等は、飲み、松茸蒸を味わいつつ、ようやく興が深くなって行くはずなのに、今日はどうしたものか、仏頂寺が至極《しごく》浮かない。いつもそう浮き立ってばかりいる男ではないが、今日は特に一杯|盃《さかずき》をふくむごとに、一杯ずつ滅入《めい》って行くような気色《けしき》がいぶかしいのです。
「丸山――」
「何だい」
「きょうの酒は、また一段と旨《うま》いし、松茸蒸も頬っぺたが落ちそうに旨いけれども、どうも、おれのこの胸が、この心が、ちっとも浮いて来ないわい」
「ふーむ、悪いものを見せたからなあ。色縮緬の女物なんていうのは、仏頂寺には虫の毒なんだ」
「いや、それじゃないなあ」
「は、は、は、何か別にお気もじさまな一件があるのかい」
「どうも面白くないな、こうして酒を一杯飲むごとに、胸が重くなる」
「冗談じゃない、酒は憂鬱《うれい》を掃《はら》う玉箒《たまははき》というんだぜ、酒を飲んで胸を重くするくらいなら、重湯を食べて寝ていた方がいい」
「だが、丸山――酒は旨いんだよ、肴は申し分ないんだが、この胸だけが、だんだんと苦しくなる」
「病気でも起ったのかい――鬼の霍乱《かくらん》てやつで……」
「そうじゃない――病気なんていうやつは、本来、仏頂寺の門前を避けて通ることになっているのだが、今日はなんとなく気がふさぐよ」
「困ったもんだな、天気はこの通りよしさ、ところは名代の小鳥峠の上で、紅葉を焚いてあたためた酒を飲みながら、手取りの松茸《まつたけ》のぴんぴんしたやつを手料理、これで気をふさがれちゃあ、土瓶も松茸も泣くだろう、第一、板前の拙者がいい気持はしないや、浮きなよ、浮きなよ」
「浮かない、どうもこの胸が、一杯飲むごとに沈んで行く、といって、酒はやっぱり旨《うま》いのだ、肴《さかな》に申し分もないし、天気はいいし――」
 仏頂寺は、盃を噛みながら四方《あたり》を見廻す。至極晴れやかな小鳥峠だけれども、仏頂寺に見廻されると、急に白ちゃけてくるようになる。丸山はその気を引立てようとでもするかの如く、
「不足を言えば、たぼ[#「たぼ」に傍点]が一枚欠けているだけのもんだ、この席へ、いま聞いたような咽喉《のど》が一本入れば、それこそ天上極楽申し分ないのだが――望月《もちづき》のかけたることのなしというのはかえって不祥だよ、この辺で浮きなよ、浮きなよ」
「浮かない――一杯飲めば飲むだけ気がふさぐ」
「弱ったな、こうして働いて御馳走をしてやって、その御馳走を食わないならいいが、さんざん食い且つ飲まれながら――一口上げに気がふさぐと言われたんじゃ、全く板前がやりきれない」
と言って、丸山勇仙がつまらない面《かお》をして、仏頂寺の面を見なおす。
「丸山、つまらねえな」
「何が……」
「つまらねえよ」
「何が、どうして」
「酒を飲んでも浮ばれなくなったんじゃ、もう見きり時だ」
「いやに湿《しめ》っぽいことを言い出したもんだな、しかし……」
と、丸山も少しく思案してみての上で、
「そうだっけな、李白の詩に、酒を飲んで愁《うれい》を銷《け》さんとすれば愁更に愁う、というのがあったっけ、あれなんだな」
「どれだ」
「まあいいや、酒というやつが、必ずしも人を浮かすときまったもんじゃないんだから、何でもいいから飲みな仏頂寺、遠慮なく飲みな、そのつもりで、この松茸と相応するほどもろみ[#「もろみ」に傍点]が仕こんで来てあるのだから」
「飲むのは辞退しないよ、ただ、一杯飲むごとに気が滅入る」
「まだあんなことを言ってやがる、勝手にしな。ところで、こっちも人に飲まれたり、愚痴を聞かされたりばっかりしていてはうまくないから――これより、思うさまお相伴《しょうばん》と致して」
 丸山勇仙も、この辺から板前を辞して、自分も会席へ進出しました。

         十四

 ところが、自分が飲み出してみて、丸山勇仙が、
「仏頂寺――」
「うむ」
「旨《うま》いなあ――この酒は」
「旨いな」
「松茸も旨いだろう」
「旨いよ」
「浮きな」
「浮かない」
「では、僕が大いに浮いて見せよう」
 丸山勇仙は、浮かない仏頂寺を浮き立てるつもりで、自分がぐいぐいと手酌《てじゃく》で盃を重ねながら、ようやく浮き立とうとつとめたが、気のせいか誂向《あつらえむ》きに浮いて来ないらしい。
 そこへ仏頂寺が、また横の方から、すさまじい声で呼びかけました、
「丸山――」
「何だい」
「そもそも我々は、これからどこへ向って行こうというのだな」
「君の郷里、越中国|氷見郡《ひみごおり》へ出ようということになっている」
「駄目だ、駄目だ、仏頂寺がこの仏頂面を下げて、今更のめのめと故郷へなんぞ帰られると思うか」
「今それを言い出されちゃ遅い、では、この辺で立戻りの弁慶とやらかすか」
「いったい、どこへ立戻るんだ」
「さあ、そいつはお前の方から聞きてえんだ、やむを得ずんば江戸へ引返すかな」
「江戸――江戸へ出て、あのやかましい老爺《おやじ》の篤信斎の髯《ひげ》を見るのは癪《しゃく》だ」
「では、どうだ、長州へのし[#「のし」に傍点]ては――」
「長州は今、尊王攘夷《そんのうじょうい》で、国を寝かすか起すかと沸いている、あんなところへ、我々は飛び込めない」
「だから、大いに勇士の来ることを期待している、君でも行けば、この際、大いに歓迎するだろう」
「なかなか」
「奇兵隊を率ゆる高杉晋作なども、まんざら知らぬ面でもあるまいから、訪ねて行ったら面倒を見てくれるだろう」
「だが、仏頂寺も面がすた[#「すた」に傍点]ったからな、ぬけぬけと出て行って、仏頂寺来たか、貴様、剣術が出来ても、心術がなっていないなんぞと、高杉あたりにあの調子でさげすまれるのが癪だ」
「では、どこへ行く」
「さあ、それだ」
「いったい、我々はこれからどこへ落着くのだ、ギリギリの返答が聞きたい」
「どっちが聞きたいんだ」
 仏頂寺と丸山は、ここで面を見合わせたが、笑いもしませんでした。
「丸山――」
「何だ」
「おたがいは亡者だな」
「まあ、そんなものだろう」
「宙宇《ちゅうう》に迷ってるんだ」
「まあ、そんなものだ」
「天へも上れず」
「地へも潜《くぐ》れず、かな」
「東の方《かた》、江戸表も鬼門」
「西の方、長州路は暗剣」
「のめのめと故郷へは帰れず」
「そうかと言って、また来た道を引返すのはうんざりする」
「所詮《しょせん》……」
「考えてみると……」
「我々は、どこへ行こうと言って思案するよりは……」
「何の目的で、こうして旅をして歩かねばならないのか」
「それよりはいっそ――何故に我々は生きていなけりゃならねえのか、そいつが先だ」
「むずかしいことになってしまったぞ!」
「考えてみろ、おれも、貴様も、何のために生きているのだ」
「そいつは困る」
「困るたって、それを解決しなければ、永久にこうして亡者として、八方塞がりの籠の中を、うろうろ彷徨《うろつ》いて、無意味に行きつ戻りつしていなけりゃならん」
「なにぶんやむを得んじゃないか」
「ところが、今やそのやむを得ざることが、得られなくなってしまった――おれはもう、こうして旅から旅の亡者歩きに大抵|倦《あ》きてしまったよ」
「だって、やむを得んじゃないか、君ほどの腕を持っていながら、この手腕家を要する非常時代に、いっこう用うるところがない、拙者ときた日には、君ほどの腕のないことは勿論《もちろん》だが、儒者となるには学問が足りない、医者となるべく術が不足している、英学をかじったが物にならず、仕官をするにはものぐさい、日雇に雇われるには見識があり過ぎる――亡者としてうろつくよりほかには道がないじゃないか」
「その亡者として生きる道がもう、つくづくおれはいやになったのだ」
「では、どうすればいいんだ」
「考えてみろ」
「考えろったって、この上に考えようはありゃせん」
「斎藤篤信斎は、剣術を使わんがために生きている」
「うむ」
「高杉晋作は、尊王攘夷のために生きている」
「うむ」
「徳川慶喜は、傾きかけた徳川幕府の屋台骨のために生きなけりゃならん」
「うむ」
「西郷吉之助は、薩摩に天下を取らせんがために生きている」
「うむ」
「小栗上野《おぐりこうずけ》は、幕府の主戦組のために生きている」
「うむ」
「勝麟《かつりん》は、勤王と倒幕の才取《さいとり》のために生きている」
「うむ」
「岩倉|具視《ともみ》は、薩長を利用して、薩長に利用せられざらんがために生きている」
「うむ」
「土佐の山内や、肥前の鍋島は、薩長だけに旨《うま》い汁を吸わせてはならないために生きている」
「うむ」
「会津、桑名は、徳川宗家擁護のために生きなけりゃならん」
「うむ」
「さて、それから宇津木兵馬は――」
「は、は、は、少し、人物のレヴェルが変ってきたな」
「宇津木兵馬は、兄の仇を討たんがために生きている」
「うむ」
「お銀様という女は、父に反抗せんがために生きている」
「うむ」
「机竜之助は、無明《むみょう》の中に生きているのだ――ところで、仏頂寺弥助と、丸山勇仙は、何のために生きているのだ」
 こう言って、仏頂寺弥助のカラカラと笑った声が、またもすさまじく、森閑たる小鳥峠の上にこだましました。
「松茸の土瓶蒸を食わんがために生きている、あッ、は、は、は」
と合わせた丸山勇仙の声も、決して朗かな声ではありませんでした。

         十五

 その後、かなり長いあいだ沈黙が続いたが――仏頂寺はそれでも酒をやめるのではなく、苦り切って一杯一杯と重ねている。
 大いに浮れを発するつもりの丸山勇仙までが、いつのまにか引入れられて湿っぽくなる。強《し》いて気を引立てようとするが、どうしても引立たないらしい。
「仏頂寺――」
「何だ」
「いやにしめっぽくなったな」
「そのくせ、天地はこの通り上天気だ」
「ところは長閑《のどか》な小鳥峠の上で――」
「丸山、おりゃどうでも死にたくなってしまった」
「は、は、は」
 この時、丸山勇仙が強《し》いて笑い崩そうとしたが、いっそう重苦しい。
「死にたくなった」
「は、は、は、は」
 死ぬのがいいとも言えず、悪いとも言えない、丸山勇仙は、ただ強いて重苦しく笑うだけであった。笑いも、こうなるとうめきよりも渋濁である。
「死にてえ、死にてえ」
と、仏頂寺弥助が捲舌《まきじた》をつかい出す。
「くたばりゃがれ!」
と、丸山勇仙が悪態《あくたい》をつき出す。
「そうれ」
と仏頂寺が、最後の一杯、いな、一滴と見えるのを、深く腸《はらわた》の底まで送り込んで、その盃を勇仙めがけて投げつける。勇仙がそれを受けて、手酌で一杯ひっかけようとしたが、もう
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