を持っている二人であることはたしかなのですが、この品川砲台を冷笑する見識を持っているというものが、必ずしもこの二人に限ったものではない、相当に届く眼識を以ている者にとっては、あれは失笑の材料でないということはなかったのですから、神尾もあながち、それを憎みはしなかったが、この二人の者の正体にいたっては、ちょっと見当がつき兼ねたのであります。商人の方は浜を市場とする太っ腹の当世男とは見えるが、身分あるらしい侍は、旗本御家人という風俗でもなし、まず相当大諸侯のお留守居といったようなところだろうか、当時のお留守居の粋《いき》なところは相当見えないでもないが、その惰弱《だじゃく》に換えるのに一種の威風を以てしているところを見れば、或いは某々の藩を代表する家老格の程度であるかも知れない。いったい、陪臣を以て人間とは見ない当時の江戸の旗本、ましてその驕慢《きょうまん》そのものに生きていると言ってよろしいほどの神尾主膳の眼から見ても、心憎いところのすまし方だ。
それを神尾は多少心憎いと思いながら、聞くとはなしにその会話が、ちょうど、すぐ卓を隔てて自分の対岸にいるものですから、聞きとらざるを得ませんでした。
或いは低く、或いは通常音で、たまには豪笑を交えたりなんぞして語る二人は、傍若無人のようですけれども、その点はあまり、聞いていても悪感を持たしめない品格があるにはあるのです。そのうちに商人の方がこういうことを言い出したので、今までとは話題の変った会話に花が咲きました。
「実は、ここに秘密な大金があるのでございます、その大金はまずわたくしだけが存じているといった性質の金でございますが、この辺でその秘密をブチまけても、もう祟《たた》りはございますまいと存じます――寝かして置くのも惜しいものですが、そうかといって、使用者にその人を得なければ容易ならぬ災禍《わざわい》の元となりますが、失礼ながらあなた[#「あなた」に傍点]様が、あれをお使い下さると、金も生きて参ります、もしまた何か行違いが生じました時は、わたくしが、あなた様のために立派に責任を負ってしまってよろしいと存じております」
と、大商人がまずこう言いました。事がらそのものはなるほど秘密に属するもののようだが、尋常会話の体《てい》で語り出したところに、秘密の時効があり、はらの見せどころがあるのではないかと思われます。そうすると一方の身分ありげな士分の人が、
「ほほう、今時、そういう都合のいい金があるとは耳よりだな、いったい、いくらあるのだ」
「七万両ございますな」
「七万両――それはなかなか大金だ、その方の一存でそれが無条件に使用ができるのか」
「左様でございます、わたくしのほかに、まだ一人だけその所在を知ったものがございますが、そのほかには絶対に……そうして、そのわたくしのほかのもう一人と申しますのも、わたくしが処分いたしますと、口出しをしたくもできないようになっているのでございますから、結局、わたくしの一存で、自由になる金なのでございます」
「ははあ、してみると、その方の所有金も同様じゃ」
「いかがでございます、それを、あなた様が御使用あそばすならば、わたくしが責任を以て御用立てを申し上げますが」
「それは有難いな――この際、無条件で七万両の金の運用ができれば、一藩を救うのみならず、一代の風潮を寝かし起しもできようというものだ」
「御遠慮なくお使い下さいませ、まかり間違えば、わたくしが腹を切ります」
「そうか、では、そいつを貸してもらうかな。ところで……」
この相当の身分ある士は、七万両を咽喉《のど》へつかえもせずに、もう腹の中へ飲み込んで納めてしまったような度胸が、神尾は羨《うらや》ましくもあり、いよいよ憎いとも思いました。
おれは今まで金を欲しがっていた。相当、金を使った覚えもないではないし、身のつまる時はずいぶん無理をして金工面をし、ひそかにその腕を誇ったこともないではなかったが、こうして相手から無条件、無雑作《むぞうさ》に七万両の金の使用方を提供されながら、別段に有難い面もせずに腹へ落してしまう奴が面憎い。今のおれの目の前に七万両はおろか、七千両でも、七百両でも、七十両でも、無条件に投げ出す奴があったら、おれは恥かしながら眼の色を変えるかも知れない。然《しか》るにこいつは、七万両をおうように飲み落して、腹がくちいような面もしやがらない。憎い奴共が、憎い話しぶりだと、思わず聞き耳を立てるような気でいるところ、また例の白い上衣をつけた給仕が、何かホヤホヤと烟《けむり》の立つ肉類を皿に載せて持って来て目の前に置きました。銀の小さなお玉杓子を取り上げて、これをつつきながら、前席の会話を聞きました。
七十三
ところで、前の会話の二人も同じように、新たに運ばれたホヤホヤと烟の立つ肉をつつきながら、例の士分の方のが言いました、
「いったい、その金はどういう性質の金なのだ」
と駄目を押すと、大商人らしいのが、
「それは、御説明申し上げないでも、御安心してお使い下すっておさしつかえございませんが、ここで申し上げても、土佐までは聞えまいと存じますから」
と答えました。秘密ではあるが、ここで言ったことが土佐までは聞えまい、土佐という地名を神尾が危うく聞き留めて、ははあ、しからばこの二人は土佐にゆかりがあるのだ、土佐は山内《やまのうち》だ、山内の当主は容堂といって、なかなかどうらく[#「どうらく」に傍点]大名だそうだが、なあに、大名であろうと何であろうと、田舎者《いなかもの》は田舎者だ、遊び方が泥臭い――というような冷嘲気分が、この場合の神尾の腹の中で頭をもたげたのですが、何しても今の使用御勝手の七万両のいきさつだけは聞洩らしができない。なにも自分の懐ろをあたためる金でないことはわかりきっているが、自分のふところが冷えているからといって、温かい話が毒になるというわけではない。そうすると大商人が、その金の所在の内容をすらすらと打明けにかかりました。
「御承知でもございましょう、それは土佐の坂本先生が、紀州家から受取った伊州丸の償金なんでございます」
「なるほど――そういうことがあったな」
「あれが坂本先生の腕でございましたよ、なかなか凄い腕でございます」
「うんうん、坂本が自分の方から舟をぶっつけて沈ませて、紀州へ難題を持ちかけ、首尾よくせしめたということは聞いていたが、それをその方が預かっていたのか」
「わたくしが現在お預かり申しているというわけではございませんが、わたくしが融通を致しましても故障の出所のないことになっております。しかし、無条件でどなたを嫌わず、おおっぴらに融通のできるという性質のお金でもございません。先刻も申し上げます通り、その人を得ませんでは……その人と申しますと失礼ながら、あなた様なぞは、たしかにそれを生かしてお遣《つか》い下さるお方と存じまして、ついこんな秘密を申し上げてしまいました」
「それは本来、金銀というものは国家経済のために流通すべきものなので、死蔵して置くということは一種の罪悪だ、それに今は幕府をはじめ、諸侯という諸侯、みな経済的に疲弊していないのは一つもない、よいことを聞かせてくれた、ここで、その方から右の七万両をこっちへ廻してもらって、それからこちらはこちらで、日頃の経綸策にとりかかる、さし当り、それをどういうふうに処分し、使用するか、まあ拙者の腹を聞いての上で、その財政方を遠慮なく批評してみてくれないか」
「承りましょう」
「まず、こちらの考えでは、その金を八朱の利子附きで、百姓町人に貸出すのじゃ」
「金利をお取上げになりますか」
「いや、金利を取るのが目的ではない、それを八朱の利で百姓町人に貸付けて、物産総会所というものをこしらえさせようと思うのじゃ。そうして大いに物産をおこさせる」
「それは結構なお考えでございますが、そうして仮りに大きに御領内に物産が出来まして後に、それを、どうなされます」
「そこだ、盛んに物産を作らせたところが、買い手が無ければどうにもなるまい」
「御意《ぎょい》にござります――国内で盛んに製造が出来ましょうとも、はけ口がございませんでは、背負い込みでございますな、それに今時のこの不景気な時代でございましては……」
「そこなのだ、もちろん国内で作って国内の消費を待つだけでは、製造超過で手も足も出なくなるのは見え透いている、そこで買い手を日本全国に求めるのだ、日本全国だけではない、異国を相手にしようというのだ。世界は広い、品物を背負い込む心配の更にないことを、こっちは見届けている――」
神尾はそれを聞いているうちに、ははあ、妙な風向きになったわい、藩のために金を融通する以上は、今時、鉄砲を買い込むとか、軍艦製造費に廻そうとか、そんなような話だと思いの外――早くいえば商売の資本《もとで》にして大いに儲《もう》けようというのだ、一方ばかりが商人と思っていたら、こっちの方が商売気にかけて一枚も二枚も上らしい。
今時の国ざむらい、全く以て油断がならぬ、と神尾が意外に打たれながら、なお心にもなく耳を傾けさせられました。
七十四
大商人がそれを受答えて言いました、
「お目の高いことには、いつもながら敬服の至りでございますが、日本全国はおろか、異国までも相手に物産をお売|捌《さば》きになるとおっしゃる、そのおもくろみは至極結構でございますが、さて、それを買わされる方になってみますると、何をこしらえて、どこへ売り出すのがよろしいか、むやみに物産をこしらえて他国へ送り込みましたところで、買う人が無ければなんにもなりませぬ。よしんば一時、珍しがって買い込む者が出ましても、あとが続かなければ資本も倒れ、仕事をする者の腕も腐ってしまいまする。その辺についての御意見を伺《うかが》いたいものでございますが……」
「それは尤《もっと》もだ、そこらを考えて置かぬことにはこの問題は持ち出せないはずだ。ところで、こちらはその辺を多少研究している、長崎までも出張して、いろいろと調べてみたが、外国を相手とするとなると、何かといううちに最も利益のあるのは生糸だ、絹だと見込みをつけてしまったのだがどうか」
「なるほど」
「シルクだな――蚕《かいこ》を飼って、糸をとって、その糸をまとめて売る、外国ではそれを独特の技術で精製してシルクにするのだ。あれならば最も西洋人の嗜好にもかない、かつ、西洋に於ては婦人の服装はもとより、家内の装飾用その他、無限に需要がある。それからまた、東洋の生糸は確かに性質《たち》がいいそうだ、それからまた蚕を飼う技術というものが日本では優れているし、蚕の食物とする桑の木の発育も極めてよろしい。それからまた一定の工場や、多分の機械を備えずとも、いかなる寒村|僻地《へきち》でも、家々でその有合わす手だけで充分に生産ができる、日本でこしらえて、異国を相手に商売のできる第一のものはあれだと、こっちは見込みをつけてしまったがどうだ」
「なるほど――そのお見込みは至極御尤もでございます、また、こちらに無限の製産力がありまして、先方にも無限の需要がある点は御同感でございますが、失礼ながら値段の点はいかがでございますか、いかに取引が活溌に参りましょうとも――手数をかけ、口銭をとり、そのうえ外国まで船づみを致しまして、それで採算の儀が、どんなものでございますか、その辺の御意見は――」
「それは心配いたすな、眼前に一つの例がある、越前家ではこの最も有利なる実例を示して、大儲けに儲けているが、表向きには発表していない、なにしろ加賀で銭五の先例もあって、小面倒と遠慮をしているのではないかと思うが、こちは、ちゃんと委細を聞いている」
「ははあ、越前様が、その生糸で大儲けをおやりになりましたか」
「うむうむ、今こちが言ったところと同じような目のつけどころが、財政が豊かなだけに早く実行の緒についたのだ。あの国では早くから領内に養蚕の奨励を致してな、生糸御用係という役をこしらえて領内の諸方に出張させ、夏場になると、役所の部
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