あつめておりましたわたくしの出生地と申すのは、この近江の国、この土地の生れなのでございます」
「さようでございましたか、そのこともつい存じませぬことで、都の御出生とばかり存じ上げておりました」
「都へ出て、浮川竹《うきかわたけ》に白拍子《しらびょうし》のはかないつとめをいたしておりますうちに、妹の祇女《ぎじょ》とともに、あの入道殿のお見出しにあずかって、寵愛を一身にうけるようになりました」
「入道殿とおっしゃいますのは?」
「それは、あの清盛のことでございます、その時は太政大臣《だいじょうだいじん》の位に登っておりました」
「ああ、よくわかりました」
「その当座というものは、わたくしたちが、天下の女という女の幸福を一人で占めたもののように、世間から、羨《うらや》まれもし、あがめられもいたしました。天下を掌《たなごころ》のうちに握る太政入道は、たとい王侯将相のお言葉はお用いなくとも、わたくしたちの願いはみんな聞いて下さいました。御一門の方さえ憚《はばか》っておりまする時に、わたくしたちは思い切って甘えもいたし、我儘《わがまま》もいたして許されました。それほどでございますから、月卿雲客、名将勇士たち、みなわたくしたちに取入って、入道殿の御前をつくろわんと致しました。わたくしたちの一家|眷族《けんぞく》の末までも多分の恩賞がございました。都の浮《うか》れ女《め》は、せめてわたくしたちの幸福にあやかりたいと、名前までも祇一、祇二、祇福、祇徳などと争って改めてみたものでございます。氏《うじ》無くして玉《たま》の輿《こし》と申しまする本文通り、わたくしたちが一代の女の出世頭として、羨望《せんぼう》の的とされておりましたが、そのうち、加賀の国から、あの仏御前《ほとけごぜん》が出てまいりましてからというものは、わたくしたちの運命は、御承知の通り哀れなものでございました」
と言って、美人はここで声を曇らせて、面を伏せたようでしたが、また向き直って、
[#ここから2字下げ]
仏も昔は凡夫なり
われらも後には仏なり
いづれも仏性《ぶつしやう》具せる身を
隔つるのみこそ悲しけれ
[#ここで字下げ終わり]
 それは悲しい調子に歌い出されて来ましたが、また急に晴々しい言葉になって、
「愚痴を申し上げて相済みません、栄枯盛衰は世の常でございますから、欺いたとて詮《せん》のないことでございました、仏御前に寵愛《ちょうあい》を奪われましてから後の、わたくしたちの運命というものは、御承知の通りでございまして、すべての世界も、人情も、みんな一変してしまいましたが、ただ一つ変らぬものとして、ごらん下さいませ、この井堰《いぜき》の水の色を……」
と言って、美人は後ろを顧みて漫々たる池水を指し、
「わたくしたちのあらゆる栄耀栄華《えいようえいが》のうちに、ただ一つ、これだけが残りました」
と言って、美人は相変らず水門に腰をかけた卒塔婆小町のような姿勢で、うしろの池水を指さしながら、
「この池と、この井堰と、この用水とは、わたくしが六波羅時代に掘られたものでございます、それは、わたくしの生れ故郷の人たちが、水に不足して歎くところから、わたくしが費用を出して、この池と、塘《つつみ》と、堀とを、すっかりこしらえさせてやりました。なに、天下の相国《しょうこく》の寵愛を一身に集めたその時のわたくしたちの運勢で申しますと、こんなことは数にも入らないほどの仕事でございました。わたくしはただ、ほんのお義理をしてやる程度の思いで、自分では忘れてしまっていたくらいの仕事が、どうでございましょう、今日になって見ると、わたくしの一生のうちの最も大きな、そうしてただ一つの功徳《くどく》の記念となって、永久に残されることになりました」
 美人は、今となってはじめて、その当初には思いも設けなかった、自分のした仕事のうちの最もささやかなことの仕事の一つに、自分のあらゆる生活の最も大きな意義を見出したかの如く、惚々《ほれぼれ》とこの池の水を見ていましたが、やおら立ち上って池のほとりをさすらいはじめました。
「坊ちゃん、こっちへいらっしゃいな」
 しなやかな手を挙げて、沈勇な少年を小手招ぎをするのです。
 少年は、そのしなやかな誘いに応じて行きたくもあるし、母の手前をも憚《はばか》っていると、美人の姿は飄々《ひょうひょう》として池畔《ちはん》をあちらへ遠ざかり行きながら、その面影と、声とははっきりして、
「ねえ、坊ちゃん、あなたのこれから頼ろうとなさる御親類の方が、この後、たとい太政大臣におなりあそばし、或いは摂政《せっしょう》関白《かんぱく》の位におのぼりになりまして、従って、あなたが大名公家に立身なさろうとも、それは、あなたの幸福ではありませんよ。本当の幸福を思うならば、これから故郷の中村とやらへお帰りになって、そうして朝晩にこうして、お池と、用水と、井堰とを見守って、一生をお送りなさい。そうでなければわたくしと一緒に、嵯峨《さが》の奥というところへいらっしゃい、そこにはいと静かにわたくしたち母子が住んでいるのみならず、今ではあの仏御前《ほとけごぜん》も一家族の中の一人となりました、ちょうどあなたぐらいの少年が、何かにつけて一人欲しいと思っていたところなんです――よかったら、いらっしゃい、ね」
 言葉が余韻《よいん》を引いて、姿が隠れてしまいました。水門の蔭に没したようでもあり、水の底に沈んでしまったようでもあります。
 賢母も、少年も、惜しそうにその池の面を見つめておりましたが、もう、いずれのところからも再び姿を現わす気色はありませんでした。
 それを見ているうちに、今まで明るく点《とも》されていた蛇《じゃ》の目桔梗の提灯が、いつの間にかふっと消えておりました。それが消えると、賢母の姿も、沈勇少年の姿もなく、真暗闇。
 大平寺の門前の庭に、針のように突立っている例の黒い姿が一つあるばかり。
 比良ヶ岳の方を見上げると、時ならぬ新月が中空にかかっている。
 上平館《かみひらやかた》の方を見た時に、青い火が一つ、それは例のセント・エルモス・ファイアーではない、青い火の塊りが一つ、ふわりと飛んで、一定の距離に淡い筋を曳《ひ》いたかと思うと、暫くにして消えてしまいました。
 多分、俗に人魂《ひとだま》とでもいうものなんでしょう。

         四十六

 それはさて置いて、残されたりし上平館の松の丸の炉辺で、今、米友がスワと、炉辺の席を蹴って立ち上りました。
 そうして、自在も、鉄瓶も、大またぎに突破して跳り込んだのは、さいぜんから問題の納戸《なんど》の一間、これを奥の間とも呼んだところの一間であります。納戸と奥の間とは違うけれども、この際、炉辺と台所とを標準にすれば、いずれも構造的に奥の方に当るのですから、奥の間とも、納戸の一間とも、この際に限って呼んで置きましょう。
 そこへ米友が一息に飛び込んで行って、
「お、お雪ちゃん、どうしたい、お雪ちゃん」
 寝ている蒲団《ふとん》の中から、お雪ちゃんの身体《からだ》を引きずり起して、両方の腕で掻抱《かきだ》いてむやみにゆすぶりました。
 ところが、お雪ちゃんにはいっこう返事がなく、返事の代りに、聞くも苦しそうな唸《うな》り声があるばっかりです。
「お雪ちゃん、どうしたんだってえば、しっかりしてくんなよ」
と米友は、二たび三たび抱き上げたお雪ちゃんを烈しくゆすぶりました。
 この際、米友としては、ゆすぶってみるよりほかの芸当はなかったのでしょう。事が全く不意に出でたものですから、本人をゆすぶって、本人に事の仔細をたしかめてみるよりほかには詮方《せんかた》がない。その本人にたしかめてみる以前に、本人の正気を回復さしてかからなければならない。
「お雪ちゃーん、お雪さん、しっかりしろやい」
 この烈しい米友のゆすぶりに対して、お雪ちゃんの挨拶としては何もなく、少し間を置いて、そうして恐ろしい唸りの声ばかりで、今度はその唸り声さえ漸く低く勢いを失ってきて、その身体までがみるみる弾力を欠いて、そうしてぐったり米友の身体の上に崩れかかるようなものです。
 およそ米友としては、若い娘のこういった態度を、今までにこれで二度まで見せつけられました。その一つは、申すまでもなく、本所の相生町《あいおいちょう》の老女の家で行われた幼な馴染《なじみ》との間の生別死別の悲劇がそれでありました。
 あの時は、天地が目の前ででんぐり返ったと同様で、何が何だかわからなくなってしまったが、でも、死ぬ人は充分覚悟の前であり、そうして枕許にはお松さんという日本一頼みになる人がついていて、一から十まで行届いた臨終ぶりというべきものでありました。
 然《しか》るに今晩のことは、まるっきり違う。お雪ちゃんを介抱すべく誰もいやしない。それはそのはずで、今のさきまで元気でいた若いお雪ちゃんのことだから、誰も急変を予想しているはずのものはないのに、突発的にこの急変なのです。米友といえども全く周章狼狽せざるを得ません。
 周章狼狽は極めてはいるけれども、全く失神迷乱しているわけではない。その点に於ては寧《むし》ろ相生町の時の、天地が目の前ででんぐり返って自分の立つところ、居るところがわからなくなったとは違って、何が何だか事の順序を見きわめるだけの余裕はあったのです。
 まずあの炉辺から、自在と鉄瓶とを突破して、一気にこの室へはせつけしめられた異常というのは、この室から起ったところのお雪ちゃんの異様なる叫び――ではない、唸り声がもとなのでありました。その一種異様なる唸り声を聞きつけると、米友が例の早業で、一気にここへはせつけて来ての仕事が、前いう通り、寝ている蒲団の中からお雪ちゃんの身体《からだ》を引きずり起して、両方の腕で掻抱いて、むやみにゆすぶり立てることでありました。そうして続けさまにその名を呼んで、まず正気を回復せしめて、事の理由をたずね問わんとするものでありました。
 しかし、その手ごたえがいっこう薄弱で、かえってますます消極的にくず折れて行く有様に、周章狼狽をはじめたのは見らるる通りでありますが、この非常の際にも、ただ一つ安心なのは、どう調べてもお雪ちゃんの身体の外部にいささかの損傷のないということであります。
 斬られているのでもなければ、締められていたという痕跡もないし、毒を飲ませられたという形跡もないことですから、事態はどうしても内臓の故障から来ているらしい。女子に特有な癪《しゃく》だとか、血の道だとかいったような種類、お雪ちゃんがてんかん[#「てんかん」に傍点]持ちだということは聞かないが、そうでなければ何か非常に驚愕《きょうがく》すべきことでもあって、一時、知覚神経の全部を喪失するほどに強襲圧倒させられてしまったのだろう。
 その辺にだけは辛《かろ》うじて得心を持ち得たが、事体の危急は少しも気の許せるものではありません。
 しかし、前に言う通り米友としての芸当は、烈しくゆすぶってみるよりほかには為《な》さん術《すべ》を知らない。ただ一つ知っている、それは柔術の活法から来ているところの当ての手でした。けれども、今の米友としては、その活法を、ここでお雪ちゃんに施してみようとの機転も利《き》かないほどに狼狽を極めておりました。またその機転が利いていたところで、当身《あてみ》や活法は、施すべき時と相手とがある。今この際、このか弱い病源不明の者に向って、手荒い活法を試むることがいいか、悪いかの親切気さえ手伝ったものですから、いよいよ手の出しようが無くなったのです。そこで、いよいよ深く、いよいよ強く、お雪ちゃんを抱き締めてしまって、
「しっかりしろ、お雪べえ――」
 幸いにして、ほんとに有るか無きかのささやかな希望のひっかかりを与えたのは、この時、こころもちお雪ちゃんの体の動きに少し力が見えました。
「しっかりしろ、しっかりしろよ、お雪ちゃん」
 同じようなことを繰返して、米友が抱きしめてゆすぶる間に、有明ながら行燈《あんどん》の灯は相当の光をもっていたのです。その光が蒼白《あおじろ
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