ざりました」
「ははあ――」
「わが子を賞《ほ》めるは馬鹿のうちと申しますが、まあ、お聞きくださいまし、八歳《やっつ》の年の時でござりました、村の子供と大勢して遊んでおりますと、そのうちの一人が、過《あやま》って井戸へ落ちてしまったのでござります、そう致しますと、子供たちのこととてみんな驚き、あわてふためいて、どうしようという気にもならないでおりますと、この虎之助が、まず急いで自分の着物を脱いで裸になると共に、子供たちみんなに同じように裸にならせて、その帯を集めて、結び合わせて長くして、子供たちに、『君たちはこの端を上で持っておれ、わたしは下へ降りて行って助けて来る』と言って、自分はその帯をつかまえて井戸の底へ下って行き、溺《おぼ》れている子供を抱き上げ無事に救って上りました。それからまた……」
「どうぞ、御遠慮なくお聞かせ下さい、たしかに凡物ではありませんな、八歳の年で、その危急の場合にそれだけの沈勇があるとは、そういうお話は決して子供自慢には響きませぬ、自慢としてもそういう自慢なら、あらゆる親の口から聞かせてもらいたいくらいです」
「では、お言葉に甘えて、なお申し上げることと致しましょう。これが十歳の時でござりました、家へ盗賊が入りましてな、わたくしも内心はゾッといたしました。許しては置けないが、母子が怪我をしても、させてもならない、どうしようかと思案しておりますうちに、これがずかずかと立って何をいたすかと見ますと、村のお祭礼《まつり》の時に用いまする鬼の面が家にござりました、それを手にとると自分の面へこういうふうにかぶりまして、そうしてそのまま盗賊の前へ向って行ったのでござります。不意を打たれて驚いたのは盗賊でございました、鬼の面とは知らず、眼前に異形のものが現われ出でたものでございますから度を失って、たじたじといたしましたところを、この子が一刀に斬って捨ててしまいました」
「ははあ、それはいよいよ凡人には及び難い」
「そういう気象の子供でございますから、どのみち、これは草深いところに置くよりも、武士として出世させるのが道だと思いまして、幸いにこの長浜に親戚の藤吉郎がおりますものでございますから……」
「どうです、その藤吉郎殿には、この子が育て切れますかな」
「それはもう、そう申しては、これまた親類自慢とお笑いになるでしょうが、あの藤吉郎がまた決して凡物ではござりませぬ、この子を引廻し、使いこなすのはあれに限ったものでございます――いったい、人を見て使うということも器量の要る仕事でございますけれども、使われる方もまた、主と頼む人をよくよく見込んでかからなければならないのでございますが、この点におきましては、藤吉郎よりは虎之助の方がどのくらい恵まれているかわかりません。そこへ行くとわたしたち母子は幸運者でござります、こうして易々《やすやす》と藤吉郎に頼みさえすれば大安心でございますが、藤吉郎が主人を見立てて、この人ならばと頼み込むまでには容易なことではございませんでした。もともと尾張中村の賤《いや》しい土民生れでございますから、一族郷党に優れた取立てがあるというわけではございませんし、自分の身に何の箔《はく》がついているわけではございません、乞食同様になって諸国を流浪の揚句が、ようやくこの人ならばと思う主人を自分で見出しまして、自分でその人のところへ押しかけ奉公を致しまして、やっと草履取《ぞうりとり》に召使われましたのが運のはじめでございました。藤吉郎はあれで天下第一等の苦労人でございます、世間では天下第一等の幸運者のようにも申しますが、わたくしたちから申しますと、天下第一等の苦労人と申すほかはござりませぬ。幸運を羨《うらや》む人は多くございますが、苦労のことはあんまり認めてやるものがございません」
「なるほど――」
「あなた様も御承知でございましょう、やはり尾張の出身ではございますが、身分は藤吉郎などとは比べものにならない家柄、今は安土《あづち》の主織田信長でございます――織田殿を主人に見立てたばっかりに、藤吉郎も今は江州長浜で五万貫の身上になりました」
「そうすると、そなたのそのお子さんも、やがて一国一城のあるじになり兼ねぬ運命を持っておいでだ」
「はい、親類から一人エライのが出ておりますと、何かにつけて仕合せでございます」
「その通り。もしまた間違って親類から一人悪い奴でも出ようものなら、一家一まきが災難だ」
「さようでございます。それ故どうかこの子もすんなりと立身出世を致させたいものでございます、草葉の蔭におりまするこの子の父親弾正に対しまして、わたくしのつとめでござります――承れば、あなた様のお父上も弾正様とお名乗りあそばされましたそうで、やはり御成人あそばした後までも、あなた様の立身出世をお祈りになっていらっしゃらぬ日とてございますまい、わたくしが、どうやらこの子を今日まで育て上げましたのも、亡き連合いの魂魄《こんぱく》が守護してくれましたそのおかげとばかり思っておりまする」
「そうおっしゃられると恐縮です、あなたはこうして、立派にすんなりとお子さんを育て上げて、立身出世を亡き連合いとしてのこのお子さんの父君に誓願しておられるが、拙者ときた日には、父の名こそ同じ弾正ではあるが……子の成れの果てはお話になりません」
「いいえ、さようなことはございません。しかし親となってみますと、頑是《がんぜ》ない時は頑是ない時のように、よく行けばよいように、悪くそれればそのように、もしまた立身出世いたしましたからとて、それで心の静まるわけのものではございません」
「では、何のために立身出世をさせるのですか」
「ホ、ホ、ホ、ホ」
と、竜之助から問いつめられた賢母の人は、愛想笑いをして、
「そういうむずかしいことをお尋ねになっては困ります、今のわたくしは、ただ子供に立身出世をさせたい一心だけでございまして、立身すればするように、苦労が増すものか、減るものか、そのことなんぞは実は考えていないのでございます。それはそうと、もうかなり時がうつりました、それではそろそろ長浜へ向って出かけることと致しましょう」
と言って、木の枝に程よく吊《つる》した提灯《ちょうちん》を取下ろすべく、賢母が腰を上げて手をのばしました。
賢母が提灯を手にとろうとすると、その後ろで不意に、
「ホ、ホ、ホ、ホ」
と笑う声がしました。
三人が言い合わせたようにそちらをみやると、水門の水口《みなくち》のところに、腰打ちかけてこちらを向いている一人の白い姿があるのです。
最初は絵に見る関寺小町《せきでらこまち》とか、卒塔婆小町《そとばこまち》とかいうものではないかと怪しまれたほど、その形がよく画面に見えるそれと似通っておりました。
無論、女です。白い着物の裾を長く曳《ひ》いて、白い帯に、白い頭巾で、目ばかりを出して、不意に「ホ、ホ、ホ、ホ」と笑いかけたものですが、その笑い声がいかにもやわらかで、そうして美しさと、若さを含んでおりました。
卒塔婆小町? と疑ったのは、その姿を見た瞬間の印象だけでして、その声を聞くと、どうして、ずっと若い、美しい水々しさを持っていることに於て、やはりその頭巾の中の主も、声と同じような若さと、美しさと、それから和《やわ》らかさを持っている人であることは疑うまでもないほどです。
「どなたでございますか」
こう不意を打たれても、賢母はあまり狼狽《ろうばい》しませんで、そうして物静かに、おとない返したものです。
「御免あそばせ、失礼とは存じつつも、あなた様方のお話を、途中でおさまたげするのも何かと思いまして、こちらで伺っておりました」
「少しも存じ上げませんでしたが、どこからお越しになりました」
「都からのぼって参りましたが、実はこちらがわたくしの故郷なのでございます」
「さようでいらっしゃいますか」
ここで、両女の受け渡しがはじまりました。
最初の婦人を、仮りに賢母と名づけ、後なる白衣の婦人を美人と呼びましょう。
「あなた様には、御子息様をお連れになって、尾張の中村からお越しあそばされましたそうな」
と美人が押返してたずねると、賢母が直《ただ》ちに答えました。
「はい、お聞きの通りでございます」
「そうして、あの長浜に御親類のお方が、たいそう出世をあそばしておいでなさいますそうで、それへ御子息をたのみにおいでの由を承りましたが」
「はい、仰せの通りでございます」
「つきましては、甚《はなは》だ不躾《ぶしつけ》でございますが、わたくしの考えだけを申し上げますと、それはおやめになった方がおためかと考えますのでございますが……」
「何と仰せになりましたか」
「はい、御子息様を御親類の方へお連れあそばして出世をおさせ申すことは、おやめになった方がおよろしくはございませんかと、わたくしはさように申し上げたのでございます」
「では、わたくしたちが長浜へ参るのは、悪いとの仰せでございますか」
「その通りでございます、御子息様をお連戻しになって、尾張の中村へお帰りになるのが、あなた様方のおためかと存じまして」
「それはいったい、どういうわけでございましょう」
「まあ、お聞きあそばせ」
水門に腰かけている美人は、提灯《ちょうちん》を提げていささか立ち煩《わずら》っている賢母に向って、あらためて物語をはじめました、
「わたくしは、出世をすることが必ずしも人の幸福《しあわせ》ではないと覚えておりまする、幸福でないのみならず、出世をするのは、人間の最も大きな不幸と災禍《わざわい》の門を入るものと覚らずにはおられないのでございます、それ故に、あなた様方の、只今のお話を、ここでお聞過しにするに忍びないのでございまして」
「異《い》なことをおっしゃいます、それは不祥なお言葉でございます」
「せっかくの御子息の門出に、ケチをつけるというつもりは毛頭ございません、身につまされましたものでございますから――つまり、わたくしというものが、その出世にあやまられた一つの見せしめなんでございまして」
「いったい、あなた様はどなたでいらっしゃいますか」
賢母は、美人の言い廻しの奇怪なるに、ついその身の上の素姓《すじょう》を問いたださざるを得ない気持にさせられたようです。
そうすると、美人はそれに答えないで、おもむろに横の方を向きながら、物々しい声で朗詠のような調子をはじめました。男性を思わせるくらいの朗々たる音吐《おんと》でしたが、その調子の綴りを聞いていると、まさに一首の歌です。
[#ここから2字下げ]
萌《も》え出づるも、枯るるも、同じ野辺の草
いづれか、秋に、逢はで、果つべき
[#ここで字下げ終わり]
四十五
その時、賢母はいささか手持無沙汰に見えました。歌を以て答えられたけれど、自分には歌をもってこれに応ずる素養が欠けていることを恥づるとしも見えないけれど、さて、その突然なる朗詠に向って、何と挨拶をしていいか、ちょっと戸惑いをした形でいると、
「お母さん」
と、意外なるところから助け船ではないが、ちょっとばつの悪くなった気合を補ったのは、同伴の沈勇なる少年でありました。
「お母さん、この方は祇王様《ぎおうさま》じゃございませんか」
「何ですか」
「あの、六波羅《ろくはら》の祇王様なんでしょう」
「六波羅の祇王様」
賢母が少年の言葉に駄目を押していると、美人がそれを聞いて、また朗らかに笑いました。
「ホ、ホ、ホ、坊ちゃん、あなたはよくわたくしを御存じでしたね」
「お母さん、あの、ほら、平家物語のはじめの方にある――」
「ああ」
と賢母も、はじめてうなずきました。そうすると美人は、わが意を得たりとばかり、
「おわかりになりましたね、わたくしが六波羅の平清盛の寵愛《ちょうあい》を受けていた祇王と申す女なのでございます」
「ああ、さようでございましたか、つい、存ぜぬ事ゆえ失礼をいたしました」
「失礼は私こそ、斯様《かよう》に身元がはっきりと致して参りました上は、なお包まずに申し上げてしまいましょう。都へ出て、清盛の寵愛を一身に
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