傍点]の奴、今頃は、もう疾《と》うに国越しをしてしまって、とまりとまりの旅籠屋《はたごや》で、いいかげんうだりながら――鶏《とり》がなくあずまの方へ行ったか、奈良のはたご[#「はたご」に傍点]や三輪の茶屋なんかと洒落《しゃれ》のめしているか、わたしゃそんなところまでは知らないけれど、残されたこっちこそ、いい面の皮さ」
 この女相当の八ツ当りを、兵馬にまともに向けるから、それは上《うわ》の空《そら》に聞き流して、自分は自分としての、このごろの身辺雑事をあれかこれかと空想に耽《ふけ》っている時、外で夜廻りの音を聞きました。
 夜廻りの拍子木の音を聞くと、兵馬は膝を立て直し、
「それはそうと、もう時刻も遅い、お暇《いとま》します、冗談はさて置いてそれをお返し下さい」
 真剣そのもので、福松がさいぜんから後生大事に抱え込んでいる両刀を指して促すと、福松どのは、一層深く抱え込んで、頭《かぶり》を振り、
「いけません」
「冗談もいいかげんにしなさい」
「冗談ではございません――わたしは真剣に申し上げているんでございますよ」
「では、どうしようと言うんだ」
「今晩はあなたをお帰し申しません」
「帰さ
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