満腔《まんこう》の若やかな親しみを寄せるけれども、新月を見て、そういう親しみを持ち得る子供はない。新月を見ることを愛するものは、やはり年増の味を愛することを知る人でなければならない。
 そこで、「新月」の名はどうしても逆で、満月が新月で、それからだんだんにかけて行って新月になるというのが感情の上からは順当であるけれども、そうかといって、かけるほど、細くなるほど、老いたりとするのは当らない。いかにかけても、細くなっても、新月はやっぱり新月なのであります。満月が老い、朽ち、衰えて新月となるのではなく、満月が研《と》がれ、磨《みが》かれ、洗われ、練られ、鍛えられつくして、その精髄があの新月の繊々《せんせん》たる色と形とをとって現われるのであります。
 ですから、四日月よりも三日月がよく、三日月よりも二日月に至って、まさに月というもののあらゆる粋《いき》と美とが発揮されてくるのです。そこで人は、彼に「新」という名を与えずには置かない。他の物象にあっては、老いということは衰を意味するけれども、月にあってのみは、老いが即ち粋となり、凄《せい》となり、新となる。
 お銀様もまた、昔から、この「新月」
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