る先生だなあ」
手ずから夜具をひっかけたけれども、両足が蝸牛《かたつむり》の角のように突き出しているのを、米友がかけ直して、つくろってやり、そうして自分はまた炉辺へ戻って沈黙に返る時に、鶏が鳴きました。
三十六
脱線は道庵の生命である。脱線が無ければ道庵が無いというほどの事の道理を知り過ぎるほど知り、味わい飽きるほど味わわされている米友にとっては、事柄そのことは驚異ではありませんでした。ただ、脱線である以上は、どこまでも脱線でなければならないのです。脱線でも線という名のつく以上は筋道があるはずなのです。つまり脱線はいか様に突っ走ろうとも脱線であって、無軌道ではないはずです。
従来とても道庵の行動に於て、そのほとんど全部を脱線として認められてもやむを得ないものがあるけれども、これを無軌道、無節制、無道徳、無政府と見てはいけないのです。
ところが、今夜という今夜、道庵が今時分になって、胆吹の山中へ迷い込んで、命からがらの目に逢わされているということは、もはや脱線の域ではなく、無軌道の境に入っている。無軌道というよりはむしろ墜落の部に類する。つまり破天荒の行動と
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