ない、ことに……」
「えらく御執心じゃな」
「別に執心という次第でもござらぬが、飛騨の山々や、加賀の白山、白水谷には、これでなかなか隠れたる美人が多いとのこと。伝え聞く、悪源太義平の寵愛《ちょうあい》を受けた八重菊、八重牡丹の姉妹は、都にも稀れなる尤物《ゆうぶつ》であったそうな。また伝え聞く南朝の勇士、畑六郎左衛門|時能《ときよし》も、この地の木地師の娘に迷うて、紅涙綿々の恨みをとどめたそうな。すべて山中の女は、声清らかにして肌が餅の如く、色が雪のように白いと申すことじゃ。不幸にして我々、未《いま》だその隠れたる山里の美人に見参せぬによって……」
「は、は、は、故実まで研究しての上の御執心ではかなわぬ、いずれそのうち海路の日和《ひより》というものもござろう、気永く待つことじゃ」
「どれ、この辺で一休み」
 それは、今まで兵馬と福松とが休んでいたところとほぼ同じ地点。
「それにいたしても、なんとなく……人臭いぞ……」
「人臭い?」
 二人はお伽噺《とぎばなし》にある小鬼かなんぞのように、鼻をひこつかせて、そのあたり近所をながめているうちに、
「や! ここに――」
「そうら見ろ」
 丸山勇仙がまず杖の先にひっかけて手に取り上げたのは、色友禅の胴巻でありました。
「そうら見ろ」
 仏頂寺弥助は、勇仙からつきつけられた色縮緬の胴巻に、赭顔《しゃがん》を火のように映《は》えらせて、
「こりゃ只者でござらぬ」
 まさしくは三百両の金を今まで呑んでいたその脱殻《ぬけがら》なのだから只者ではない。右の大金をたんまりと呑んでいたばかりではない、なまめかしい人肌にしっかりとしがみついていたほとぼりがまだ冷めていない代物《しろもの》。
 仏頂寺は、高師直《こうのもろなお》が塩谷《えんや》の妻からの艶書でも受取った時のように手をわななかせて、その胴巻を鷲掴《わしづか》みにすると、両手で揉《も》みくちゃにするようなこなしをして、
「さてこそ、まだ遠くは行くまい」
「は、は、は」
と、丸山勇仙の笑い声が白々しい。
「まだ、温味《ぬくみ》があるか」
と丸山から揶揄《からか》い気味に言われて、仏頂寺弥助は友禅模様にいよいよ面を赤くはえらせ、
「まだ遠くは行くまい」
「炭部屋の中をたずねてみさっしゃい」
「ばかにするな」
 丸山勇仙も冷かし気味であり、揶揄い口調であるけれども、その、は、は、は、と冷笑するところに、なんとなくすさまじい響がする。仏頂寺弥助に至っては、右の縮緬の胴巻を面《かお》へこすりつけるようにして、面と手をわななかせたり、また、急に思い出したように、忙しく前後左右、原、藪《やぶ》、木立を見透《みすか》したり、どうしても落着かないものになっている。
 そのくせ、二人のいる四辺《あたり》は、真昼であるにかかわらず、急に白けきってしまって、二人の者が、こだまにでもおどる亡者のように見える。この二人が、亡者のようにフラフラと行方定めず歩いているのは今に始まったことではない――五体もあり、むろん足もあり、人間たることは紛れもないが、二人がのこのこと歩くところは、どうあっても白昼の亡者としか見えない。
「おい、隠れるなよ、隠れたってわかるぞ、我々共とても、鬼でもなければ虎狼でもない、みだりに取って食おうとは言やせぬぞ、これへ出て、もう一度、今のいい咽喉《のど》を聞かしてくれんかいな」
 仏頂寺弥助が、四方を見廻しながら、咽喉が乾いて舌なめずりでもするかの如く言いかけたのが、四方の静かな峠路の林まで、沁《し》み入るように響き渡りました。

         十二

 木蔭から、息を殺して、こちらをうかがっていた福松は、
「あら、大変! 仏頂寺の奴に胴巻を拾われちゃいました」
「抜かったな」
 兵馬も答えると、
「あらあら、仏頂寺がこっちへやって来るわよ」
「あわてるな、あわてるな」
と言って、兵馬も同じく木の葉の間から、眼をはなすことではなかったが、色縮緬の胴巻を拾い取った仏頂寺弥助が、叢《くさむら》を分けて、ずっしずっしとこちらに向って歩み来《きた》りいることは事実なのであります。
 まさか、これだけの距離があって、そうして物蔭にいて、彼等に見咎《みとが》められようはずはないのだが、現にこちらを目指して仏頂寺がズンズンと叢を分けてやって来るから、兵馬も動揺しないわけにはゆかないでいると、
「どうしましょう、どうしましょう……あら、仏頂寺の奴、こっちをあんな眼つきをして睨めていますよ、たしかに見つかっちまったのよ」
と言って、福松は兵馬にしがみつきました。
「まさか!」
 しかし、いよいよ感づかれて、見つけられたとなったらその時のことだ! 兵馬も腹を決めていると、
「今度は見捨てちゃいやよ、宇津木さん! わたし仏頂寺に引渡されるのは、もう御免よ」
と言って
前へ 次へ
全110ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング