、福松はぐんぐんと押しつけて来るものだから、兵馬は、たじたじと後ろの樅《もみ》の木に押しつけられてしまいました。
 この女として、恐怖は恐怖に相違あるまいけれど、これは必要以上に押しつけて来るとしか思われない。兵馬はその必要以上に押しつけて来る女の体をもてあまし気味で、
「あの連中、まだこんなところをうろうろしている、仏頂寺の故郷というのが越中の富山在にあって、あちらの方へ行くと言っていたが、今時分、何の必要あってこの辺をまだうろうろしているのか、解《げ》せないことだ」
「ひとさらいみたようね」
「あれで、惜しい男なのだ、練兵館でも、あのくらい腕の出来る奴はないのだが、心術がよくないため、長州の勇士組から見放され、師匠|篤信斎《とくしんさい》からも勘当を受け、そうして今はああして、亡者の体《てい》となって諸国をうろついて歩いている」
「悪党のようで、それで思いの外さっぱりしたところもありますのね」
「うむ――本来あれで一流の使い手なのだから」
「新お代官みたように、しつっこいいやなところはないけれども、でも気味の悪いこと、手足の冷たいこと、全くこの世の人のようじゃありません」
「自分でも亡者亡者と呼んでいる」
 こう言って、二人は物蔭で私語《ささや》き交していたが、
「あら、また、やって来ますよ」
 一時《いっとき》、立ち止って、こちらを透《すか》して見ていたような仏頂寺が、またのっしのっしと草原を分けて来るので、福松はまた兵馬に一層深くしがみつきました。
 なるほど、執念深い彼等のことではあり、異様な六感が働いて、ほんとうに我々のここにいるのを気取《けど》ったかな。もしそうだとすれば……兵馬はここでかえって機先を制して、こちらから身を現わして出て行ってみようかと思ったが、それは女にからみつかれていて、にわかに転身が利《き》かない。
 そうしていると、突然、あちらの方で、
「仏頂寺、仏頂寺!」
 高らかに呼ぶのは、丸山勇仙の声であります。
「何だい」
 それに答える仏頂寺の声が、今日はいつもより一段と太くてすさまじい。
「松茸《まつたけ》の土瓶蒸《どびんむし》をこしらえて食わすから来い」
「ナニ、松茸の土瓶蒸!」
と言った返事が、やっぱりすさまじく四辺にこだまして聞える。
 仏頂寺が振返って見ると、丸山勇仙が、以前の地点で盛んに火を焚きつけている。
「ふーん、松茸の土瓶蒸と聞いちゃ、こてえられねえ」
 仏頂寺は仏頂面《ぶっちょうづら》をしながら、でも、松茸の土瓶蒸がまんざら[#「まんざら」は底本では「まざら」]でもないと見えて、しぶしぶ引返して行くのです。

         十三

 仏頂寺が以前の地点へ立戻って見ると、丸山勇仙は、もうかいがいしく料理方を立働いている。
 なるほど、土瓶蒸の献立がすっかり出来上っている。原料の松茸は、途中こころがけて山路で採集して来たものであろうし、それを土瓶に仕かけて水を切って、火を焚きさえすれば口へ運べるようにととのえて持って来ているらしい。
 おまけに彼は一瓢《いっぴょう》をも取り出して、そこへ並べてあるのは、松茸の土瓶蒸だけでなくて、紅葉《もみじ》を焚いてあたためるの風流にも抜かりがないとは、なんと優しいことではないか。
 仏頂寺はそれを見ると、相当に仏頂面をほぐして、草を褥《しとね》にどっかと腰を卸したところへ、如才なく丸山勇仙が猪口《ちょこ》をつきつけました。
「松茸の土瓶蒸で一杯やるかな――」
 仏頂寺が仏頂面に涎《よだれ》を流してそれを受ける。
 かくして二人が、土瓶蒸を肴《さかな》に、とりあえず一杯ずつの毒味を試みている。
 旅に慣れた彼等は、即席の調理方に要領を得ている。小鳥峠の上を会席の場として選定したこともまた、ところに応ずの要領を得ている。
 かくて彼等は、飲み、松茸蒸を味わいつつ、ようやく興が深くなって行くはずなのに、今日はどうしたものか、仏頂寺が至極《しごく》浮かない。いつもそう浮き立ってばかりいる男ではないが、今日は特に一杯|盃《さかずき》をふくむごとに、一杯ずつ滅入《めい》って行くような気色《けしき》がいぶかしいのです。
「丸山――」
「何だい」
「きょうの酒は、また一段と旨《うま》いし、松茸蒸も頬っぺたが落ちそうに旨いけれども、どうも、おれのこの胸が、この心が、ちっとも浮いて来ないわい」
「ふーむ、悪いものを見せたからなあ。色縮緬の女物なんていうのは、仏頂寺には虫の毒なんだ」
「いや、それじゃないなあ」
「は、は、は、何か別にお気もじさまな一件があるのかい」
「どうも面白くないな、こうして酒を一杯飲むごとに、胸が重くなる」
「冗談じゃない、酒は憂鬱《うれい》を掃《はら》う玉箒《たまははき》というんだぜ、酒を飲んで胸を重くするくらいなら、重湯を食べて寝ていた
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