なら
板の間で踊れよう
板のひびきで
そうれ
三味いらぬ
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 呆《あき》れて聞いているうちに、兵馬もまた、なんとなくいい心持になって行くようです。
 うたはくだらない鄙唄《ひなうた》だと思うが、女はさすがに鍛えた咽喉《のど》であり、それにきょうはいやなお客の前で、胸で泣きながら口で浮つくのとちがい、なんだか心に嬉しいものが溢《あふ》れて、全く商売気抜きで、思う存分うたってのけられるのが嬉しくてたまらないものらしい。だから声もはずむし、気は加速度に浮き立ってとめどがない。
 そこで、おぞましくも兵馬なるものが、今はなんだか自分も浮き浮きして、女の唄の中に溶かし込まれて行くようでもあり、その唄が終るのが惜しいような気もして、もっと、もっと――と所望してみたいような気になっていると、
「聞き手があなたじゃ張合いがないけれど、でも、あなただって芸者のうたを聞いて悪い気持はしないでしょう――今日はわたし、全くつとめ気を離れてうたって上げることよ、ところがところですから、箱ぬきで我慢して頂戴――今度は新しいところをお聞かせしてあげるわ、これは、御贔屓《ごひいき》になった夕作さんという土地の通人がこしらえたうたなのよ――古風なのと違って、また乙なところもあるでしょう、おとなしく聞いていらっしゃいね」
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思う殿御と
ころがり月を
晴れてみる夜が
待ち遠し
 (口三味線で合の手)
梅も桜も
一度に咲いて
よそじゃ見られぬ
飛騨の春
[#ここで字下げ終わり]
 兵馬は、なんとなくいよいよいい心持に引込まれて行くのです。事実、芸者のうたなんぞと軽蔑していながら、今日はどうしたか、それからそれと深みに引入れられて思わずうっとりとしてしまったところを、
「まあ、あなた、わたしのうたを感心して聞いていらっしゃるわね、頼もしいわ。そりゃあなただってお若いんですもの、うたを聞いていやな気持ばっかりなさるはずはないわねえ。お若いうちは食わず嫌いから、皆さん堅そうなことをおっしゃいますけれど、人間がほぐれて行くほど、お酒の味も、咽喉の味もわかって参りますのよ。あなたというお方も、もうこっちのもの、これから、わたしがみっちり仕込んであげるわよ。ところでもう一つ、今度は、飛騨の高山の土地のうたでない、本場のお座附をわたし、あなたのためにうたってあげるわよ」
 そうして、鶯《うぐいす》の鳴く前芸のように咽喉をしめて、何か本格の芸事をはじめようと構えた時に、兵馬が、別の方向にふと聞き耳を立てました。女の方も何か少しおびえてきました。
 気のせいか、峠の向うで人の声がしきりにガヤガヤとしだしている。
 兵馬は、ひらりとその音の方を見届けに行きました。

         十一

 峠の鼻のところまで物見に出て行った宇津木兵馬は、少しく狼狽《ろうばい》の気味を以て取って返して来ました。
「困った!」
「誰か参りますの」
「人が登って来る――しかもその人が、仏頂寺弥助と、丸山勇仙らしい」
「えッ、仏頂寺!」
と言って、さすがの福松が、今まで晴々していた面《かお》の色をさっと変えました。兵馬も同じ思いと見えて、
「あの連中と逢っては為めにならない」
「隠れましょうよ――早く」
「隠れるに越したことはあるまい」
「さあ、早く、あなた、これをお持ち下さい」
 二人は秋草を分け、木の間を分けて、早くもめざしたところの樅《もみ》の大木の二本並んだ木の蔭へ来て、叢《くさむら》の茂みに身を隠してしまいました。
 ほど経て――のっしのっしとこの峠の上へ、無論高山とは反対の側、白山道の方からです――身を現わした最初の一人は、まごうかたなき仏頂寺弥助――やや後《おく》れてそれにつづく丸山勇仙。
「たしかにここで人声がしていたよ、来て見ると誰もいない」
「そうそう、たしかに女の声でうたをうたっていた、しかも甚《はなは》だいい声で唄っていたに相違ない」
「それを楽しみに来て見ると、どうだ、誰もいない」
「では、あちらの下りに向いたかな」
「いいんや――うたがぽつりと消えたのが心外じゃ、あれだけに意気込んで唄っていたのだから――向うへ下るにしても余韻《よいん》というものが残らなければならない」
「それは、ぽつりとやんで跡形《あとかた》もないのだから、こいつ、我々の来ることを知って、怖れをなして隠れたな」
「或いはそうかも知れん」
「しかし、いい声であったよ」
「声だけ聞いていると、まさに惚々《ほれぼれ》したいい声であったが……姿を見ると案外の代物《しろもの》、後弁天前不動《うしろべんてんまえふどう》という例も多いことだから、むしろ見ない方が我々の幸福であったかも知れない」
「だが、それにしても心残り千万、声のいい奴が、きっと姿が醜いときまったわけのものじゃ
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