とも言えない。
 お蘭どのがああなってしまえば、この金をこのままにして置いたところで取りに来る者がない。使ってしまったところで、尻を持って来るおそれのないような金だ。
 そうかと言って、これがこの女に所有権があるというわけではないから、この女に使用権が附着するということも成り立たない。
 そういうようなことを考えているうちに福松は、切餅のような三百両包を三つ、手に取りあげたり、取落してみたりしながら、
「わたしたちの日頃の心がけがいいから、それで白山様がお恵み下さったのよ――御信心のおかげですわ。こうなると、お蘭さんばかり恨んではいられないわねえ。ねえ、宇津木様、どうかして頂戴、この大枚のお金を――わたし、あなたに、すっかりお任せしてしまいますから、煮て召上るなり、焼いて召上るなり……」
「うむ」
「ねえ、あなた、これだけあれば、あなたとわたしと二人で、日本中の名所見物をして歩いても不足はありませんわね」
「ばかなこと」
「加賀の金沢か、越中の富山あたりへ、小ぢんまりした世帯《しょたい》を持てば、一生遊んで暮して行けやしないこと」
「ふーん」
「また、これから白山へ行く途中には、白水谷《はくすいだに》だの、畜生谷なんて、名前はいやなところですけれども、どんな悪人でも隠れて一生安楽に暮せる里があるって言いますけれど……わたし、それは御免を蒙《こうむ》りたいのよ、いかに暮しよくっても、そんなところで一生を埋めてしまってはまだかわいそうよ……ですからね、宇津木さん、こうして頂戴、加賀の金沢というところは百万石の御城下でしょう、何はともあれ、二人してあすこへ落着きましょうよ、そうして、わたしは自前《じまえ》で暢気《のんき》にこの商売をしますから、あなた兄さんになって頂戴――これだけ資本《もとで》があれば、立派に自前で通して、あなた一人を過すことなんぞは、憚《はばか》りながらわたしの腕で朝飯前よ」
「まあ、何でも君のいいように使い給え、君には授かりものかも知れないが、拙者には用のない金だ」
「あら、また、あんな小憎らしいことをおっしゃる、こういう御縁になってみれば、わたしのものはあなたのもの、あなたのものはわたしのもの、でもあなたが見るのもおいやとおっしゃるなら、わたし、もう、とても重くってやりきれないから打捨《うっちゃ》ってしまいますよ」
「では、とにかく、道中だけは拙者が預かろう」
「嬉しい」
「では出立いたそう」
「どうしてあなた、そんなにお急《せ》きになるのよう、前に日限のある身ではなし、あとから追手のかかる旅でもないのに、もっと落着いていらっしゃいな。それにあなた、飛騨の高山も今が一生の見納めじゃなくって、二度と再び頼まれても、わたしはもう、こんな土地へ帰りゃしません、あなただって御同様でしょう。一生の思い出に、ここでひとつ、ゆっくりとお名残《なご》りを惜しもうではありませんか」
と言って、女はこし方の高山の方へと向き直りました。
 しょうことなしに兵馬が佇《たたず》んでいると、女はどうしたのか、いよいよ浮き立ってきて、
「ねえ、宇津木さん、ここでわたしがお名残りに、飛騨の高山で覚えた芸づくしをお聞きに入れるわ――お相手があなたじゃ、その方は張合いがないけれど、わたしの心意気だけを聞いて頂戴よ。いいえ、あなたにお見せ申す心意気てわけじゃないことよ、これっぽっちの間ですけれども、高山には御厄介になっていたお礼心で、わたしここで、高山音頭を器量一杯にうたってみますわ、あなたはお相伴《しょうばん》に、おとなしく聞いていらっしゃいな」
 女は高山の方へずっと向き直って、そうしてツツンテンテンと口三味線をはじめました。
「聞いていらっしゃい、古いところからお耳に入れてあげるから」
 兵馬がいよいよもてあまして立っていると、女は練り上げた声で、
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宮の八兵衛は酒お好き
お酒三杯と嬶《かか》かえた
嬶かえた……
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 その突拍子な調子を兵馬が呆《あき》れました。
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心やすやす安川を
向うに越ゆるは鍛冶屋橋
宮で角助、平湯で右衛門《えもん》さ
ドン、ドン、ドドロン、ドン
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 兵馬は呆れ果てているけれど、女はいい心持に、また調子を替えて、
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おちゃえ、おちゃえ
おちゃのうちの梨の木で
蝉が鳴く、何と鳴く
つまこい、つまこいと三声なく
おちゃえ、おちゃえ
あねさの腰の巾着は
びろどかな
びろどでないが、熊の皮
おちゃえ、おちゃえ
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「それから今度は白川おけさ……」
と軽く手前口上をのべて、
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おけさよう
おけさ正直なら
そばにもねさしょ
おけさ猫の性で
そうれ爪たてた
おけさよう
おけさ踊る
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