じゃないか、早く取戻して来て頂戴」
「合点《がってん》だ――こうと、三日を限ってひとつ約束して上げようじゃねえか、明日の朝から三日だよ、いいかい、その間、お前は、ここに永く泊っているのもなんだろうから、これから、ずっと近江路へのして待っていな――近江路はそうさねえ、草津か、大津か――いま道中記を見て、しかるべき宿屋へ当りをつけて置いてやるから、そこで、ゆっくり待っていな――」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は包みを解いて道中記を出し、宿屋調べをしていると、お蘭どのが、
「でも、なんだか、お金は欲しいには欲しいけれども、危ないようでねえ――お金は戻っても戻らなくてもいいからねえ、三日目には帰って頂戴よ、大津あたりに宿をきめて待っているから、手ぶらでもかまわないから、三日目には帰って頂戴よう」
と、かなり淋《さび》しそうな表情で、しなだれかかりました。
「まあ、そんなに気を揉《も》みなさんなよ、色男、金と力は無かりけりてのは昔のこと、今時の色男は、金も力もあるというところをお目にかけてやりてえんだよ」
と、がんりき[#「がんりき」に傍点]が甘ったるい返事――
 そのうち二人は、道中記を調べて、お蘭どのが先へ行って、待合わすべき宿屋をきめて置いて、万一の時は、その旅宿も目じるしをつけて置いて先発し、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、これからまた飛騨の高山へ逆戻りして、和泉屋の福松のところへ預けて置いた三百両を取戻して、お蘭どのに見せてやるべく、その翌日早朝に、寝物語の宿を立ち出でてしまったのです。美濃路へ後戻りをしながら、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は思出し笑いを、したたか鼻の先にぶらさげて、
「ふーん、甘え[#「甘え」に傍点]ものさ。だがまた、こいつは格別だよ、素人《しろうと》じゃあねえが、くろうと[#「くろうと」に傍点]でもなし、飛騨の高山の田舎娘上りとは言い条、どうして、味はこってりと本場物に出来てやがらあ、口前のうめえところは女郎はだしなんだが、あれで、気前と心意気にはうぶ[#「うぶ」に傍点]なところがまる残りなんだから掘出し物さ、いわば、生娘《きむすめ》と、お部屋様と、お女郎と、間男《まおとこ》とを、ひっくるめたような相手なんだから、近ごろ気の悪くなる代物《しろもの》だあ。なあに、がんりき[#「がんりき」に傍点]ほどの者が、たった三百両が残り惜しくって、飛騨の高山まで逆戻りの危ねえ綱を渡るでもねえ、三百両が欲しけりゃ、どこかもう少し安全な方面へ当りをつけたって、つかねえ限りもあるめえものだが、あいつにあの手文庫のままのやつを持って来て見せてやりてえ――まあ、お前さん、本当に持って来て下すったねえ、何という凄《すご》い腕でしょう、わたしゃ、お前さんのその片腕にほんとうに惚《ほ》れちまったよ――なあんて、あいつを心から参らせてみるのも悪い気がしねえテ」
 百の野郎は、いや味たらしい思出し笑いをした上に、
「さてまた、福松の阿魔だがなア、あいつがまた、こちとらの面《かお》を見せるとただは帰《けえ》すめえがの――色男てやつは、どっちへ廻っても楽はできねえ」

         八十一

 こういった意気組みで、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百の野郎が、高山へ向けて自慢の迅足《はやあし》で飛んで行って、あの警戒の厳しい中を、首尾よく宮川通りの目的地まで、忍んで行ったには行ったけれども、御神燈の明りが入っていないことで、まず胆を冷し、叩いてみると、おとといあき家になっていたということで、ベソを掻《か》いてしまったのはいいザマです。
 尋常にお暇乞いをして北国の方へ出かけたということだから、夜逃げというわけでもあるまいが、あんな田舎芸妓《いなかげいしゃ》に出しぬかれたのはがんりき[#「がんりき」に傍点]生涯の不覚と、苦笑いがとまらないが、しかし、こんなけんのん[#「けんのん」に傍点]な場所がらに、寸時も足を留めていることはできないから、すぐその足で、がんりき[#「がんりき」に傍点]はまた飛んで帰りました。
 帰りの途中、がんりき[#「がんりき」に傍点]は、思い出しては、自分ながら腹も立たないほどばかばかしくって、お話にもなんにもならないと、やけ半分でむやみに歩いたが、それはそれでやむを得ないとして、さあ、三日目と約束したあのじだらくお蘭に、何と言って面《かお》を合わせたものか。
 どうも仕方がねえ、お代りを工面《くめん》して行って、それでどうやら御機嫌を取結んで、こっちの男を立てるまでだ。お代りといったところで、ちょっと大枚の三百両だ、そこいらにそうザラにはころがっていねえ、これはこそこそや巾着切りじゃあ間に合わねえ、相当の荒仕事をしなければならねえが、さてどうしたものだろう。
 がんりき[#「がんりき」に傍点
前へ 次へ
全110ページ中109ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング