して、心のうちでは、こっちの親切がちゃんとわかっていただいてるんだから、悪くねえのさ。ところで、このケチな野郎がどのくらいお前さんに実意を持っていたかという証拠を、もう一つここで生《しょう》のままごらんに入れる段取りになるべきなんだが、風をくらって、つい、そいつを一つ取落したのが不覚の至り。というのはお蘭さん、お前さんも迂闊《うかつ》ですねえ、これほどの御念の入った道行をなさろうてえのに、命から二番目の路用を忘れておいでなさるなんぞは取らねえ。お手元金をね、ふだんあれほど御用心なすって、枕もとのお手文庫へ、いざという時お手がかかるように備え置きの金子《きんす》ざっと三百両、あれをいったいどうなすったんですね」
「それなんですよ、それを今、歯噛みをしながら口惜《くや》しがってるんですが、もう追っつかない、当座のお小遣だけは何とか工面して来たけれども、これから先を考えると心配でたまらないのよ」
「そこでだ、そういうことには憚《はばか》りながら、色と慾との両てんびん[#「てんびん」に傍点]をかけて抜かりのねえがんりき[#「がんりき」に傍点]の百なんですから、あのきわどい場合に、ちょっとちょろまかしの芸当なんぞは、お手のものと思召《おぼしめ》せ」
「何を言ってるんだか、よく、わからないが、ではお前さんが、その時にあれをちょろまかして持出しでもしたの、持出したとすれば、ここまで持って来て下すったの? まあ有難い、ほんとうに色男の御親切が今度ばかりは身に沁《し》みてよ。そんならそうと、早くおっしゃって下さればいいに、焦《じら》さないで早くそれをここへ出して頂戴な」
「ところがだね、そこは憚りながらがんりき[#「がんりき」に傍点]の知恵で、抜かりなく、あのお手元金三百両を持出したことは確かに持出したんだが――ここまで持来《もちこ》して、お前さんを喜ばせる運びまで行き兼ねたのが残念千万なんだ」
「なあんだ、途中で落しでもしたのかい、そのくらいなら、そんなお話を聞かせてくれない方がかえってよかった」
「ところがね、まだあきらめるには早いんでしてね、あの場合、大金を持って逃げちゃあ危ねえと思うから、ちょっと預けて出たんだ、ちょっと知合いへね」
「その預け先はわかっているの」
「それはわかっているさ、行けば、いつでも、ちゃあんと渡してくれることになっている」
「どこなの――」
「高山の町よ――」
「高山じゃ、つまらない、欲しくったって、二度とあすこへ行けますか」
「ところが、ここで気を抜いたら、わっしが、ちょっと行って受取って参りますから、御安心ください」
「ちょっと行くったって、お前、ここはもう近江の国じゃないか、これから美濃の国を通り過して、それからまた飛騨の高山まで、ちょっくらちょっとの道のりじゃありませんよ。それにお前さん、それを取りにでも行こうものなら、待ってましたと、隠密《おんみつ》の手で引上げられてしまうにきまっていますよ。飛んで火に入る夏の虫とは本当にこのこと、三百両は惜しいけれども、銭金のことは、またどこでどうして稼《かせ》ぎ出せないとも限らない、命は二つとありませんからね、せっかくだが、あきらめちまいましょうよ」
「ところがねえ、お蘭さん、その辺に抜かりのあるがんりき[#「がんりき」に傍点]じゃあございません、その預け先というのが、決して、どう間違っても、ばれ[#「ばれ」に傍点]たり、足のついたりする相手じゃあねえのですから、豪気なものです。それに、憚りながら、この兄さんは足が少々達者でしてね、飛騨の高山であろうと、越中の富山であろうと、ほんの少々の馬力で、御用をつとめますから、その方もまあ御安心くださいまし」
「いったい、高山のどこへ預けて来たんですよ」
「こうなっちゃ、すっかり白状してしまいますが、あの宮川通りの芸妓屋《げいしゃや》、和泉屋の福松という女のところへ、確かに三百両預けて参りました」
「あの福松に――憎らしい」
 お蘭どのは、どうした勘違いか、がんりき[#「がんりき」に傍点]の膝をいやッというほどつねり上げたから、
「あ痛! 何をしやがる」
と、百の野郎が飛び上ったのは当然です。そこでお蘭どのがまた、御機嫌斜めで、
「嘘つき、あんな芸妓にわたしの金を預けるなんて――預けたんじゃない、やってしまったんだろう」
「御冗談、あんな田舎芸妓に、三百両を捲上げられるような、がんりき[#「がんりき」に傍点]とはがんりき[#「がんりき」に傍点]が違いますよ、見そこなっちゃあいけねえ」
「本当ならお前、それを取って来て、わたしの眼の前に並べてごらん」
「言われるまでもねえことさ、これからひとっ走り行って持帰って来てごらんに入れると、さっきから、あれほど言ってるじゃねえか」
「じゃあ、そこでお前さんの本当の腕と、実意を見て上げよう
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