人が旅に出かけるということを誰にも知らせないように、旅の用意を整えるだけのものでありました。
 お銀様のために、その要求した五万両の金を、どうして、どのように送るかということの宰領は、一に老番頭の考慮のうちにあるのですから、伊太夫はかまいません。自分は、ちょっとした村の名主が、小前二三人をつれて伊勢詣りにでも出かけるくらいのいでたちで、屋敷のうちの者を選んでともとして、その翌々日、この屋敷を立ち出でたのです。
 東海道を行こうか、木曾街道をとろうかと、最初は考えましたが、思いきって木曾路をとることにしました。
 屋敷を出たのは夜でした。与八と太平は、村境を出ると釜無土手の尽きるところまで、提灯《ちょうちん》をつけてお送りして帰って来ました。その帰り途で、太平老人から聞くところによると、旦那様はあれで、今でこそ出不精《でぶしょう》でいらっしゃるが、若いうちはずいぶん旅をなされたもので、度胸もおありになるし、剣術や、槍や、柔術までも相当に御稽古を積んでいらっしゃる――それにおともの若いものも、みんな気も利《き》いているし、相当に引けを取らないだけの腕も出来ているから、旅先でも少しも心配になることはない――ということを聞かされて、与八が安心を加えました。
 こういうわけですから、有野村の大尽《だいじん》が京大阪へ向けて旅立ちをなされたという評判は、どこからも立ちませんでした。屋敷のうちの家の子には、日頃から、旦那様がどこにいらっしゃるのか知らない者も多いくらいですから、たまにその気色《けしき》を見かけたものにしてからが、甲府へでもおいでなさるか、遠くてお江戸――いつもの通りせいぜい六日一日もすればお帰りになるものだと信じていたのです。ですから、今度の旅は、無事に行っても、どのみち一月や二月はかかるのだということの暗示を受けたものさえありません。
 与八が本家の方へ、当座の留守居に据わり直したということも、日頃の信任から見ても無理のないことですから、主人が出て行っても、そのあとにはいっこう変った空気が漂うことはありませんでした。

         八十

 近江と美濃の境なる寝物語の里で、いい気でうだっていたお蘭どのの寝込みを、思いがけない奴が不意に襲って来ました。
 遊魂は、別な方向に向ってさまよい出でてしまい、その身代りとして現われた奴は、全く似ても似つかない、いけ好かない野郎でありました。
 しかし、こうなっては、お蘭どのももう遅いのです。いけ好いても、いけ好かなくても、こいつに見込まれた以上は、女に下地がある限り、のがれっこはなし――一時は野暮《やぼ》に叫びを立てようとしたが、どっこい、その口を塞がれてしまってみると、有無《うむ》を言わされようはずはないのに、お蘭どのという女が、本来あんまり有無を言わない女なんだから、口をこじあけて、大福餅を抛《ほう》りこんで無理矢理に食べさせられてしまってみると、今度は、もう一つ食いたいと口をあく奴なんだから、事がそこに及んだ後はたあいないものです。
「どうです、お蘭さん、男はケチな野郎でも、こうなってみると、まんざら憎くもござんすめえ。ことにお蘭さん、お前さんを見そめたのも、昨日や今日のことじゃありませんぜ、飛騨の高山では、命を的に大奥まで乗込みの、あぶない綱渡りも致しましたのを、よもお忘れじゃあござんすめえ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百からこう脂下《やにさが》られて、お蘭どのが今更のように、
「おや、お前さんという人は、高山のことまで知っているの?」
「知らなくってどうなるもんですか。あのいつぞやの晩でげした、新お代官の奴は新お代官で、どこからか手入らずの新しいのをつれ込んで、たんまりはんべらせようとなさるし、お前さんはお前さんで、前髪立ちの若い男かなにかに持ちかけるというのを、見たり聞かされたりした、こっちもだま[#「だま」に傍点]っちゃいられませんね、名代《なだい》の新お代官のしろもの、お蘭さんてえこってり者に一目お目にかかって置きてえ、それ、あの晩忍び込んだはいいが、いやはや、飛んでもない戸惑い、人違え、当ての外れた相手がそれに思いの外の腕利きで、すんでのことに危ねえところ――それほどまでに思いこんだ、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百てえ野郎が、わっちなんでげす。心意気を聞いてみりゃあ、なおさら憎くもござんすめえ」
とがんりき[#「がんりき」に傍点]に脂下《やにさが》られ、お蘭どの、眼尻が上ったり下ったりして、
「あの時の悪者はお前さんだったのかえ――それとは知らなかったよ」
「悪者じゃございませんよ、この通り、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百といって、ちっとは鳴らしたいい男の兄さんでげすよ」
「いやな奴」
「いやな奴で、大きにお気の毒さま。でもまあ、口でけな
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