さんらい》をやっておりました。
そこへ伊太夫がたずねて来たものですから、与八も一刀三礼のことを休んで、そうして、
「旦那様、おいでなさいまし」
と言って、伊太夫を招じて炉辺へ来ました。伊太夫の調子によって、何かそれは、自分に相談事があって、懇《ねんご》ろに話をしたいために来られたのだということが、直ぐにわかったものですから、座を立ったのです。
そこで、炉辺で茶を煎《せん》じながら、伊太夫の話し出すのを聞いていると、
「与八さん、わしは少し急に思い立って、旅をして来たいと思うのだが、その間、お前さんに頼みたいのは、本家の方へ来て留守番をしてもらいたいのだが」
「おや、そうでございますか、旅にお出かけなさるんでございますか、お江戸の方へでもおいでなさるんでございますか」
と与八が念を押しました。旅と切出す以上は、一晩泊りや二晩泊りの意味でないことはわかっているが、せいぜい江戸出府、ほぼ四十里ばかり――と与八の頭に来たものですから、そのつもりで念を押したのですが、伊太夫は頭を振って、
「いや、そうではない、もう少々遠方へ行ってみたいのだ。実は、娘がな、あの持余し者が上方見物に出かけている、そのあとを追いかけるわけではないが、わしも一度、西国を廻って来たいとは心がけていたのだが、ついどうしても出かけられないでこれまで来ている。ではいつ出かけられるかというと、それを待っていたんでは、生涯その暇は作れないにきまっているから、今日、たった今思いついたのを吉日として、早速出かけようと決心をしたのだよ」
「まあ、上方見物から西国|廻《めぐ》りでございますか――ほんにまあ、急なお思い立ちでございますなあ」
「そういうわけで、家事向きのことは一切あの老番頭の太平が心得ているから心配はない、ただ不在中を、お前さんに本家の方へ来ていてもらいたいのだ、こっちの留守番は、いくらも人をよこして上げる」
「そうでござんしたか、本当のことは、わたしが方で、旦那様にお願いして、旅に出ようと思っていたところでございましたが、あべこべに旦那様がお出かけになるたあ、思いの外でございました」
「いや、それで、一時はお前にいっしょに行ってもらいたい、つまりお前さんといっしょに西国めぐりをしようかという気になったのだが、また考え直してみると、ともは相当のを選んでつれて行けるが、留守の方に、頼みになる人を置かなけりゃならぬ、そこで事務の方は太平に任せて置けば心配はなし、お前さんは、ただ本家の方へ来て、すわっていてもらいさえすればよい」
これが洒落者《しゃれもの》ならば、なるほど、与八ならば据わりがいい――と交ぜっ返したくなるような頼みなのですが、頼む方も、頼まれる方も、最もしんみりしたものなのです。与八は一途《いちず》には引受けるとは言いませんでした。
「旦那様が、今、旅にお出かけになることが、いいことだか、悪いことだか――わしらが留守を頼まれる方は、なんでもないことなんでございますが」
と言いました。
「まあ、誰彼に言い触らすと、留める者も出て来るし、また有野の伊太夫が上方見物に出かけるなんぞと近辺に取沙汰が起ると、事が大きくなって面倒だし、それに今時は物騒な世の中だから、道中、どんな悪者や、胡麻《ごま》の蠅が聞きつけて、附き纏《まと》わないとも限らないから、わしは隠れて行くのだ、これから一人か二人、ともを選んで誰にも気取《けど》られないようにして出かける」
「旦那様が、そこまで御決心をなすったんじゃあ、わしらがお留め申したって、おとどまりなさるはずもござんすめえから、お留守のところはお引受け致しました。では、御無事に行っていらっしゃいまし」
与八も、こう答えるよりほかには、頓《とみ》に返答のしようがなかったのです。自分が引留める権能もなし、引留めたからとて引留められるはずもなし、女子供とかいう人ならば、一応忠告も試みようというものだが、堂々たる大家の主人の行動に、自分なんぞが口出しをすべき抜かりのあるはずはないのだから、やはり、言われた通りに従順に受け、頼まれた通りに頼まれるのが一番だと、与八の頭にうつりました。それに、突然とは言いながら、持余し者ではあるが一粒種のお嬢様というものが、あちらへ出かけていらっしゃるのだから、親としてそれをみとりがてら、旅をなさろうというのは、お奨《すす》め申せばとて拒《こば》む理由はない、と信じたからであります。
与八の快き承諾ぶりで、伊太夫は最も安心して本家へ引きとると共に、内密に、迅速に、旅の用意をととのえてしまいました。今の伊太夫の家では、この旅を、無用なり、危険なりとして諫諍《かんそう》するほどのものはありません。よし、あったとしたところで、与八と同様の考えで、むしろお奨め申せばとて拒む理由はないのですから、ただこの上は、主
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