も常々与えてあるのですから、今まで、主人にはいちいち通告せずに、老番頭一人で取計らって、請求がありさえすれば、少しも猶予せずその請求額だけを、どしどし払い渡してやっていたのですが、今やここで、その全部をよこせ――と提言をして来たのですから、無論、老番頭一存では計らいきれず、それを聞かされた伊太夫さえも、一時《いっとき》うなってしまって、ついに何とも判断の下せない形になったのも無理がありますまい。
 伊太夫の身上は、これをかりに見つもっても、何千何万になるかは容易に計上し難いのであります。容易というよりは、全く金銭に換算しては計上し難いと見るのが至当でしょう。そのうちから、お銀様とても、株券をいくら、債券をいくらと分譲されたわけではないのですから、現金のほかは、山林であり、田畑であり、或いは家屋敷倉庫の一部分、衣類や書画|骨董《こっとう》といったようなものなのですから、それを残らず金に見積ることは、やっぱり不可能と言ってよいのですが、いちばん可能性のある金銀だけに就いて言ってみても、果してどのくらいの額に上るでしょうか。大正昭和の頃の、甲州第一の富豪といわれる某氏の財産を、かりに八千万円と見て、それを伊太夫の財産額として、そのうちの八分の一を譲られた計算にしてみてからが、ほぼ一千万円程度のものを、直ちに引渡せという交渉には、親子の間とはいえ、全く自由処分に任せるつもりの金であるとはいえ、一言で裁断を下せないのはあたりまえでした。
 そこで伊太夫が唸《うな》りました。しかし、やや暫く唸りを長く引いているだけで、一言の下に「馬鹿!」と言って蹴飛ばさないところを以て見ると、相当考慮の余地は存して置いているものらしい。といって、「いいから、おやんなさい」と容易《たやす》く肯定に入ろうとも思われないから、老番頭も覚悟して、主人と共に、その返答の挨拶の文案を練りにかかろうとする身構えです。
「あれの分が現金で、今どのくらいありますか」
 暫くあって、伊太夫の老番頭に対する質問がそれでした。
「左様でございます――手許にありまする分と、貸附の分とを、ちょっと取調べてみますると、十四万八千両ばかりござりまするで……これをごらんくださいませ」
と老番頭は、帳面を持って来ているのを、ここで主人の前にひろげたのです。
「ははあ」
と言って、じろりとその帳面に伊太夫は眼をくれたけれども、取り上げて仔細に見ようとするのではありません。しばらく、また眼をつぶっていましたが、やがて、軽く眼を開いて言いました、
「送っておやりなさい」
「えッ」
と、老番頭が少なからず動揺したようです。
「送っておやりなさい、貸金の方を今すぐ取立てて送るというわけにもいくまいから、現金の方はあるだけ、そっくり送っておやりなさい」
「え、承知いたしました」
と老番頭は、主人の命令が絶対的であることをよく心得ています。汗の如しとたとえることは畏《おそ》れ多いが、この家の代々の慣例では、ぜひ善悪ともに、主人の言葉は絶対でした。そこで老番頭は、非常な狼狽《ろうばい》をつくろいながら、委細かしこまってしまって、
「では、現金額と致しまして、取りまぜ五万七千三十両ござりまするが、それをそっくり……」
「そっくり送っておやりなさい、為替に組むなり、馬につけて送るなり、いいようにして届けておやりなさい」
「はっ、承知仕りました」
 こうして老番頭は、帳面を抱え直して、また主人の前をすべり出でたのです。
 老番頭の命令服従も無条件でありましたが、五万両からの金を、我儘娘《わがままむすめ》のために支出させる伊太夫の命令も無条件でありました。何のために、どうして使用するのだ、その使用が経済の法にかなうか、かなわないか、その使用法が倫理の道に合するか、合しないか、またその金を送ったがために、当人の身が幸福になるか、不幸になるか、そんなことは一切頓着しなかったのです。すでに分配して授けてしまったものを、授かった者が持ち去るのは当然である。多く持って行ってはいけない、少なく所有するがよろしいというような条件があっては、人に物を与えたということにはならない。
 与えた以上は、自分の物ではなく、人の物である――という水のように淡い応対で済ましてしまった伊太夫は、また暫く何か思案に暮れていたようだが、急に思い出したもののように、立ち上って下駄をつっかけましたが、どこへ行くかと思うと、いつも、与八の塾をたずねる時に行くと同じ橋の多い小路に隠れたところを見ると、やっぱり、あの悪女塚のなきあとをたずねて見る気になったものかと思われます。

         七十九

 伊太夫は果して、与八塾をたずねて来ました。
 その時、与八塾の生徒はもう放課後で、郁太郎のほかには誰もおりません。
 与八は、一室で一刀三礼《いっとう
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