また番をしてくりょな」
と言い置き、ちょっとの間だからと思って、近所の川へ洗い物をユス[#「ユス」に傍点]ぎに出かけた。
 その後で、手白は早速母親のするのを真似《まね》て、柄杓《ひしゃく》で釜からチンチン煮えている湯を汲んで来て、おしゅんの頭からザーッと二度も三度もかけてやったからたまらない、おしゅんはキッキッと泣いて、そのまま赤くただれて焼け死んでしまった。
 川から帰って来た母親は、あまりの驚きに泣くにも泣かれず、
「手白、汝《われ》ぁ困りもんのことをしてくれたなあ、いまにお父《とっ》さんが帰って来《こ》らば、どんないによまアれる[#「よまアれる」に傍点](叱られる)か知れんから、さアちゃっと[#「ちゃっと」に傍点]山へ逃げろ」
と、急いで子猿を山へ逃がしてやった。
 やがて与次郎が山から帰って来たので、女房が、
「今日は本当に申しわけァないことをしとう[#「とう」に傍点]、手白の奴ン飛んだことをしでかいて[#「しでかいて」に傍点]しまって」
と言ってありのままを話すと、与次郎はカッと怒って、
「猿はドコへ行っとる[#「とる」に傍点]、あいつをも生かいちゃアおけん」
と言う。女房が、
「猿ウは山へ逃がいとう[#「とう」に傍点]」
と答えると、与次郎は、
「ほんじゃア直《じ》きに行って俺《おれ》ンめっけて来る」
と言って、直ぐ山へ駈け登り、方々を探したが、なんぼめっけても手白がいはしん[#「しん」に傍点]ので、仕方なく家に帰り、
「まず、おしゅんのおトブラいでもしず」
と言って、見ると、そこに寝かして置いたはずのおしゅんの死骸がない。
「はて、変なこともあればあるもんだ」
と、そこいら中を探してみたが、どこにもめっかさらん[#「めっかさらん」に傍点]。
 さすがの与次郎も、これにはびっくりして、やがて、じっとうつむいて、
「俺ン、今まで、鳥獣《とりけだもの》の命を、あんまり取ったその罰が、今日という今日は報いて来て、おしゅんの死骸まで無くンなっとう[#「とう」に傍点]に違いない、俺アハイ、今日限り殺生《せっしょう》は止めにしる[#「しる」に傍点]」
 そう言って与次郎は、鉄砲をへし[#「へし」に傍点]折って近所の不動様へ納め、さて言うことに、
「俺アこれから六部《ろくぶ》になって、今までに命を取った鳥けだものや、おしゅんの後生《ごしょう》をとぶらいながら、日本国中を経めぐって来る」
 そう言うと与次郎は、直ぐに六部の装束をし、笈物《おいぶつ》をしょって、鉦《かね》をチャンチャン叩きながら、その日のうちにぶんだい(出参)た。
 さて、村の周囲《まわり》に聳える山々のうち、どれか一つ越えねばならぬが、それならば第一に親猿をうちとめた山へ登り、まずそのあとをとむらって行こうと、あの清水の湧く山さして登って行った。
 すると、あれほど勝手知ったる山でありながら、今日に限ってどう踏み迷ったか、行っても行っても清水のところへ出ないばかりか、ますます奥深く迷い込む様子なので、与次郎は困りきって道端の石に腰を下ろし、
「二十年も歩き慣れたこの山で、道に迷うなんて全くどうかしている、とにかく、少し気を落着けてみず」
と、じっと眼をつぶった。するとどこからともなく、かすかに猿の啼《な》き声が聞えて来る。耳を澄ますと、だんだんこちらへ近づいて来た様子なので、与次郎が驚いて眼をあけて見ると、向うから何十匹とも知れぬ猿が枝に伝わってやって来たが、それが皆、与次郎の前へ坐って一礼した。
 おまけにその猿共の一番前に、逃げた手白がいる。手白はふと立ち上り、与次郎の着物の裾を引いて、どこかへ連れて行く様子ゆえ、今は与次郎もどうするという当てもなし、怪しみながら、ただ手白のするがままになって続いて行った。
 山が次第に深くなって、もう大分来たと思われる頃、一つの広い岩屋に到着した。その中に枝葉がいっぱい敷いてあって、何百とも数知れぬ大猿小猿が並んでいるし、なおよく見ると洞穴の真中辺に、岩で囲んだ井戸のようなものがあって、湯気がポッポと立っている。
 与次郎は、びっくりして見ていると、手白がツカツカと進んで、その井戸のようなものの中へ飛び込み、直ぐ一人の赤児を抱いて出て来た。与次郎が驚いてよく見ると、その赤児は、疾《と》うに死んだはずのおしゅんであった。
 おしゅんは、やけどの傷も更に無く、前にも増して元気になっていたので、与次郎は夢かとばかり喜んで、手白の手を握って厚く礼を言うと、手白も与次郎の手を舐《な》めずって、さも嬉しそうな顔をする。与次郎は衣の端を裂き、それにおしゅんをクルんでヒトコへ入れて喜び勇んで山を下った。
 何百とも数知れぬ猿共は、手白を先頭に、麓《ふもと》の村が見える所まで与次郎を送って来てくれたが、いよいよ別れる時になると、さすがに手白
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