しにも撃てるかどうだかわからん」
と言って辞退したが、たってのお望みとあって是非もなく、
「そんじゃア」
と言って引きうけて帰った。
 そして鉄砲を磨き、弾丸《たま》をしらべ、幾日もの食い物をむすびにして腰につるし、
「もし撃ち取れねえば、生きちゃ帰るまい」
と覚悟し、氏神様へお参りをして、ある日、朝早くから山へ登って行った。
 そして幾日も幾日もの間、とてもごっちょう[#「ごっちょう」に傍点](苦労)して、山という山は残るところなく、ほかの鳥獣《とりけもの》には目もくれず、ただ手白猿ばっか[#「ばっか」に傍点]探し廻ったが、その行方《ゆくえ》はかいもくわからなかった。これまで、ほかの鳥獣なら、これと狙《ねら》った以上は必ず取りぞく[#「ぞく」に傍点]ないのない与次郎も、手白猿ばかりはまるで手はつかなんだ。
「いよいよ今日中にめっからねえば、その時こそは死ぐばっかだ」
と考えながら行く。お天道様の具合で、ちょうど昼時となったので、与次郎は谷間に湧く清水の岩角に腰を下ろして昼食を始めたけんど、がっかり[#「がっかり」に傍点]している今は食べ物も咽喉《のど》を通らない。
「はい、これからは持っていたところで仕方もなし、残りのむすびもこの辺へうちゃアらず[#「うちゃアらず」に傍点](捨てよう)」
と前の谷を覗《のぞ》き込むと、その拍子に与次郎はハッと驚いた。今まで見たことのない手白猿をはじめて見た。
 それは、全く手首から先の真白い大猿で、すぐ下の岩の上からじっ[#「じっ」に傍点]と与次郎を見つめていた。なんぼたっても逃げようともしないので、与次郎は不思議に思ったが、
「こりゃ天の助けずら[#「ずら」に傍点]」
と喜んで、その後ろへ手を廻し、鉄砲を取り直すが早いか、しっかりと狙いを定めた。けれども猿はまだ逃げない。与次郎はますます喜んで、いまにも鉄砲をぶっぱな[#「ぶっぱな」に傍点]そうとした。すると何思ったか与次郎は、むしょう[#「むしょう」に傍点]に鉄砲をガラリと投げ出した。猿は動かなかったはずで、赤ん坊を片手で抱いて、片手では一生懸命に与次郎を拝んでいたのだった。
 生れて間もない赤ん坊が、しきりと母親の胸に頭をすりつけ乳房を探している様を見ると、与次郎はかわいそうでならなかったが、
「せっかく、こんない[#「い」に傍点]にして、めっけとう[#「とう」に傍点]に、今ここで逃《のが》い[#「い」に傍点]ては――」
と気を取り直し、また鉄砲を肩につけた。猿はじっとこっちを向いて、なおも一生懸命に拝んでいる。与次郎はたまらなくなって、また鉄砲を投げ出した。
 ちょうど与次郎の家にも、生れて間もない赤ん坊があった。与次郎は自分が家を出かける時、その赤児と別れるのが、なんぼ辛《つら》かったか知れなんだのを思い出し、人に物を言うように、
「なア猿、かわいそうどう[#「どう」に傍点]けんど、ぜひおれに命をくりょ、殿様のたってのお望みで仕方ンない、ちょうどわしにもお前ぐれえの赤児がある、無理もないこんどう[#「こんどう」に傍点]、お前の子供はおらがのおしゅんといっしょに、おしゅんのアンマ[#「アンマ」に傍点](乳)をくれてきっと立派に育ててやる、そんだから、な、頼むからわしに命をくりょ」
 こう言うと与次郎は、三度目の鉄砲を取り、心を鬼に取り直してグッとひき金を引いた。
 猿は見事に喉をぶち[#「ぶち」に傍点]ぬかれてバッタリと倒れた。与次郎は自分も貰い泣きをしながら、泣き叫ぶ赤児をようやく親猿から引離してヒトコ[#「ヒトコ」に傍点](懐ろ)へ入れ、親猿をショって山を下った。そうしてその猿を殿様に差上げると、殿様からはたくさんの褒美《ほうび》を下された。
 これから与次郎は子猿を家に連れて帰り、女房にも、この猿はこれこれこういうわけで連れて来とう[#「とう」に傍点]だから、大事に育てろとよく言いつけた。
 猿の子もはじめのイトは、乳を欲しがって泣いて困ったが、そのたびに与次郎の女房がおしゅんの乳を分けてくれ、だんだん馴れてイカくなった。おしゅんとヒトツトシだが、おしゅんがまだ人の見さかいもつかぬうちに、猿の子はもう木にも上れば、しまいにはおしゅんの子守までするようになった。そうしてその子猿も、やはり手首から先が白かったので、与次郎夫婦は、名も母親と同じに「手白、手白」と呼んで可愛がった。
 三つにもなると、手白は全くおしゅんの子守をよくしてくれるので、おしゅんの母親は、手白におしゅんを預けると、いつも安心していろいろの仕事ができた。
 ある日のこと与次郎が、いつものように山へ行った後、母親はおしゅんに湯でも浴びさせようと、釜で湯を沸かし、半槽《はんぞう》(盥《たらい》)にその湯を汲んでおしゅんを入れ、自分は子の傍で洗濯をしていたが、
「手白、
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