増して光輝があり、肌ざわりがよろしく、西洋人は、日本のシルクというと目が無えんでございます、日本のシルクでなければ夜も日も明けぬ、いくら高金を出しても日本のシルクを買いたい、という御執心なんでげすから、有難いもんじゃあげえせんか」
「ふーん、日本の絹がそんなにあいつらには有難《ありがて》えのか」
「有難えのなんのって、全く眼が無えんでございますが、蚕の口から出たシルクでさえ、そのくれえでげす、まして生きたシルクと来ちゃ、命もいらねえということになるのは理の当然じゃあがあせんか」
「何だそれは。生きたシルクというのがあるのか」
「有る段じゃあがあせん、つい、その目の前に……」
「何だ、目の前に生きたシルク、わからねえ、目の前に絹糸なんぞはありゃしねえ」
「殿様も頭《おつむ》が悪くていらっしゃる、それ、目の前に生きたシルクが装いをこらして、控えていらっしゃるじゃあがあせんか」
「何だ、どこに……」
「いやもう、悪い合点でございますな、神尾の殿様、つい目の前に、生きたシルクが、つまりお絹様が……」
「なあに、絹が、お絹の奴が……なるほど、絹は絹に違いない」
「ところがこっちの絹が、当時、本物のシルクより洋人の間に大持てなんでげしてな、マダム・シルクでホテルの中が、日も夜も明けない始末でげす……」
「馬鹿!」
 神尾主膳は場所柄をもわきまえず、金助あらためびた[#「びた」に傍点]公をなぐりつけようとして、危なく手元を食いとめました。その時に、左の方からお絹が口を出して、
「殿様、お食事が済みましたらば、マネージャのタウンさんに御紹介を致しますから、お会いくださいませね。それから、望楼に参って遠眼鏡をごらんくださいましね。亜米利加《アメリカ》の先まで見透しというのは嘘でございますけれど、上総房州あたりまでは、ほんとに蟻の這《は》うまで見えようというものでございます――それから、今晩はぜひ一晩、ここにお泊りなすっていらっしゃい」
「いやだ」
「そんなことをおっしゃらずに、何も見学の一つじゃございませんか、西洋のホテルの泊り心地はまた格別なものでございますよ」
「お前は、その経験があるのか」
「いやですよ、殿様、そんな大きな声をなすって……」
 そのうちに食事は済んで、食堂が閉されることになって、ぞろぞろ引上げる。神尾もそれにつづいてその席を立たなければならない段取りになりました。

         七十六

 ああして、与八の私塾はようやく盛んになって行きます。
 塾長たる与八は、自家の彫刻もやり、子弟の教育もやり、医術をも施したが、今度は偶像としてあがめらるるに立至りました。
 与八の私塾には、塾長先生の講話のほかに、近村の古老を迎えての課外講話がありました。近村の古老篤行家を迎えて、次第次第に殖えてゆく子供たちのために、無邪気なる古伝説や、或いは実験の物語などをしてもらって、衆を教育すると共に、自分も教えられるところが多くありました。無雑作な昔話にしても、土地に居つきの人そのままから、土地の音声を以て話してもらうと、古朴の味わい津々《しんしん》たるものがあって、人をよろこばせること多大なものがあるのです。
 今日の課外講師というのは、一色村の土橋くらさんというお婆さんでありました。この春、七十七のお祝いをしたという達者なお婆さんに、お孫さんの里木さんというがついて来て、与八さんの塾の子供たちに昔話をしてくれました。その話は――
 昔、相吾《さまご》の与次郎という法外鉄砲をブツことの上手なかりうど[#「かりうど」に傍点]があった。
 その近所に大猿が現われ、畑を荒したり、鶏をさらったり、ひどいワルサをして困った。
 それから村中総出で、近辺の山の中を残らず狩り出したが、猿のさ[#「さ」に傍点]の字も見えず、ただ山奥でチラリと見たという者は二三人あったが、その誰も彼も、その猿の手は真白だったと言うので、いつとはなしにその猿を「手白猿《てじろざる》」と呼ぶようになった。
 手白猿のワルサは日に増し劇《はげ》しくなって行くばかりなので、領主の殿様も大へん腹を立て、
「あれしきのものが撃ち取れぬとあっては俺の恥だ、ぜひとも捕まえて来《こ》う」
と、家来を呼んで厳しく言いつけた。
 家来たちは困り果てて、いろいろの評議の末、御領内を方々探したところ、与次郎の話を聞いて、
「これこれの法外上手な狩人《かりうど》があるから、猿はこれに撃たしたらようございましょう」
と殿様に申し上げた。すると殿様も、
「それじゃあ早速、その者を呼び出せ」
ということで、与次郎は殿様の前へ呼ばれた。殿様は、
「これ与次郎、手白猿はどうでも貴公が撃ち取ってくりょ、そうしれば褒美《ほうび》はなにほどでもやる」
と言った。与次郎は、
「けんど殿様、あんないの大猿は、とてもわ
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