、自分の左の方だけが最初から椅子が一つ空いていた。他のすべては満員になったけれども、ここだけ特に自分のためにあけて置いてあったかと思われるように残されていたそのところへ、今になって不意に人が現われて、無雑作に席に就こうとしたから、それで驚き呆れたのではなく、その人の全く思いもかけない風采《ふうさい》の人であったから度胆をぬかれたのです。神尾ほどの人だから、たいていの人間が現われたからといって面負けをするはずはないのですが、この時ばかりは呆気にとられました。
というのは、その現われた人の風采が、全く想像も及ばなかったからのことです。つまり、そこへ今ごろ現われたのは、盛装した一個の西洋婦人でありました。
その西洋婦人が単に西洋婦人でありさえすれば、神尾としても、これほどまでに面負けがして狼狽《ろうばい》するはずはなかったのです。西洋ホテルの食堂へ西洋婦人が現われるのは、茶室の中へ茶人が出入りするのと同じことなんです。それに現に眼の前にも、髪の赤いのと、目玉の碧《あお》いのとの一対がいるのですから、そう顛倒するには当らなかったのですが、いま現われた西洋婦人が、極めて滑《なめ》らかな日本語を使って、
「殿様、お待たせ申しました」
これに驚かされたのです。なお、くどく言えば、その流暢《りゅうちょう》な日本語の技倆に驚かされたのではない、その言葉を操る口元と、面《かお》を見て、あっと動揺したのです。
「お絹ではないか、貴様は……」
あの化け物めが、すっかり髪を洋式の束髪に結ってリボンをかけ、服装は上をつめて下を孔雀《くじゃく》のようにひろげた、このごろ新板《しんぱん》の錦絵に見るそのままのいでたちで、澄まし返って「殿様、お待たせ申しました」がよく出来た! こいつが! と主膳は躍起となったが、まさかなぐり[#「なぐり」に傍点]つけるわけにもゆかない。するようにさしていると、その椅子へ納まり返って、洋皿や匙《さじ》を使う手つきが、もはや相当に堂に入っている。
この新客が席につくと、今まで会話に酣《たけな》わであった士分と、商人と、それから洋人男女と、その他の者が一時みな、お絹の洋装の方に目をつけました。ところがこの女は、一向わるびれないのみか、むしろ場慣れのした愛嬌をふりまいて会釈をすると――
「マダム・シルク、ヨク似合ウコトアリマス」
大商人の隣席にいた赤髯《あかひげ》が、片言《かたこと》の日本語でほめました。
「有難うございます、手妻使いのようには見えませんか」
「イヤ、ソウデナイデス、立派ナ西洋貴婦人アリマス」
こういう問答で、一座がにわかに春めいてきたが、主膳の苦々しさったらない。
うんとお絹の横顔を睨《にら》みつけると、例の乳白色の少し萎《な》えてはいるが、魅力のある白い頬に、白粉をこってりとつけている。
「マダム・シルク、アナタ日本ノ宝デアリマス、日本ノ富デアリマス」
赤髯が主膳の苦りきるのとは打って変って、お絹が現われてからにわかに陽気になりました。
シルク、シルクと頻《しき》りに言うが、シルクという言葉は、さいぜん、あの士分と商人との二人の口からも出たようだ。
シルク、シルクと、シルクが今日の座持のような売れ方だ、いったいシルクというのは何のことだ、おもシルク[#「おもシルク」に傍点]も無え! と神尾はいよいよ不機嫌で、隣りの金助改めびた[#「びた」に傍点]公に呼びかけました、
「びた[#「びた」に傍点]、シルク、シルクというが、いったいシルクとは何のことだ」
その時、びた公が得たり賢しというような表情をして、フォークを左にさし置き、
「でげすな、シルクてえのは、只今それお話の、お白様《しらさま》の口からお出ましになって、願わくは軽羅《けいら》となって細腰《さいよう》につかん、とおいでなさるあの一件なんでげす」
「何だ、それは」
「あの蚕の口から出まする糸、それを座繰《ざぐり》にかけて繰り出しましてから、島田に結わせて、世間様へお目見得《めみえ》を致させまする、あれは通常、生糸と申しましてな」
「生糸のことを聞いてるんじゃない、シルクとは何だと聞いているのだ」
「それなんでげす、話の順序でげしてな、その生糸をすっかり繰り上げましたのが、それがすなわち絹糸なんでございます」
「そんなことは、貴様に聞かなくても大よそ心得ている」
「まあ落着いておしまいまでお聞きあそばせ、その絹糸のことを洋語で申しまするてえと、すなわちシルクてなことになるんでございます」
「なるほど、シルクとは絹の洋語か」
「左様でございます、この繰り上げた絹糸の肌ざわりというものが、とんとたまらぬそうでげして、洋人という洋人が、これに参らぬのはござんせんそうで、ことにイタラの国の絹よりも、支那出来の絹よりも、日本の絹が、世界のどこの国にも
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