も残り惜しそうに、後ろを振返り振返り山へ帰って行った。与次郎もまた笠を振りながら、やはり見えなくなるまで見返り見返り山を下った。
家に帰ってこの話をすると、女房も飛び立つばかり喜んだが、与次郎は、
「俺ア、こうしてせっかく六部に行こうと思い立っとう[#「とう」に傍点]だから、どうでも行って来る」
と、おしゅんや女房を伯父《おじ》に預けて、よく後々のことを頼み、そのまま六部になって行った。
その後、なんぼ探しても、手白も、その不思議な猿の湯も、二度とは見つからなかった――
土橋のおくら婆さんから、土地の言葉で、こういう話をして聞かせてもらうと、子供たちは皆、膝に手を置いて、感心しきって、しーんとして聞いていたが、その話が終ってしまうと、そこは子供のことで、忽《たちま》ちがやがやと陽気になり、一人立ち、二人立ち、やがて元気いっぱいになり、
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医者どんの頭をステテコテン
医者どんの頭をステテコテン
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と一方で合唱をすると、他の一方にかたまった連中が、
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そんなこと言うもん[#「もん」に傍点]の頭をステテコテン
そんなこと言うもん[#「もん」に傍点]の頭をステテコテン
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と、負けない気になって合唱をはじめる。そうすると前のやからが、ひときわ声を励まして、
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医者どんの頭をステテコテン
医者どんの頭をステテコテン
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と合唱する。それに対抗する一方は、またひときわ声を張り上げて、
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そんなこと言うもん[#「もん」に傍点]の頭をステテコテン
そんなこと言うもん[#「もん」に傍点]の頭をステテコテン
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ステテコテンの対抗合唱で、天地も割れるほどの騒ぎとなったが、塾長先生は、別にそれを制しようともせず、叱ろうともせず、一席の講話を終って息を入れているところの、土橋講師のところへ行って、
「大へんにため[#「ため」に傍点]になるお話を聞かせていただいて、わしらも貰い泣きをしたでがす」
と言って、頭を下げて挨拶をしました。
七十七
お銀様の父伊太夫は、その日は書斎にたれこめて、帳面を見たり、物を考えたりしていました。
伊太夫に大きな悩みのあることは、すでにわかっていることです。身上《しんしょう》が大きいだけに、悩みもまた大きいということもしかるべき道理でありますが、老境に入った今日この頃では、ほとほとその悩みに堪えきれないほどの重荷を成しているのも事実です。
伊太夫のその悩みを一語で言ってみると、「持てる者の悩み」ということに帰するでしょう。
「持てる者の悩み」というような現代的の言葉を以て、自分ながら表現することはできないが、悩みの根原はまさしくそこにあるのでありまして、「持たぬ者の悩み」と対比して、その悩みを悩む人の数こそ少ないが、その性質に至っては、持たぬ者の悩みより遥《はる》かに深刻なものがないとは言えない。持たぬ者の悩みは、お仲間が最大多数であって、同情の分量もまたそれに比例して大きいが、持てる者の悩みは、その共鳴者が少ないだけ、理解者も、同情者も、少ないと言わなければならないのです。
伊太夫は、陰密の間に、その悩みに虐《しいた》げられて来ましたが、それと共に、この悩みは悩みではない、自分は持てるが故《ゆえ》に長者であり、他の羨望《せんぼう》の的となっている強味の点ばかりが自分を刺戟していて、未《いま》だ曾《かつ》て自らその持てる物のために悩まされているのだとも、虐げられているのだとも信じたくはないのですが、事実上、自分の持てるものが、自分とその家族に、解放も与えず、愉悦も恵まず、平和も安心も来たさないで、かえってその重荷が年毎に加わって行く、その圧力だけは感じないわけにゆきません。
それが偶然、与八という男を見ると、全く別な世界の人を見出さないわけにはゆきませんでした。無一物の旅から旅の中に、なお安心があり、平和があり、受くるよりも与うることに幸福を感ずる天然自然の悠々たる余裕がある――ああいう生活方法もあり得る、現にあり得ているという驚異を、持たせられざるを得ませんでした。
早く隠居してしまいたい――と、漫然としてこういう歎息と、その実現を望んだことは、今にはじまったことではなかったのですが、隠居してさてどうなる、ということを、ついその実行者として引取って考えてみると、自分には隠居ができないということを、すぐに悟らざるを得ないのです。
あととりがないということです――今や天地間に自分の家を譲るべき血統の人としては、お銀様のほかにはないのです。そうして、その唯一の継承者たるべき人は、また唯一の反逆者でした。
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