貴公子の相手になって月を見てやる方が好もしい、という気分になったのでしょう。そうすると、先方も呼吸《いき》が合ったと見えて、
「あなたは、あの詩の一句を、最初は単なる叙景として覚えておいでのようでしたが、あとでお調べになって、叙景の句ではなくて、唐代美人の粉飾の形容だということをおさとりになったようですが、あれはやはり彼此《ひし》同様の意味にとるのがよいのです。美人の眉目の形容と兼ねて、日まさに暮れんとする長安の黄昏《たそがれ》を歌いました、語意相関にして着筆霊妙というところなのです」
「私には、あの詩が充分にわかってはおりません、どうか、御説明くださいませ」
「知っている限りはお聞かせ致しましょう。そうして、あなた様は、どちらへお越しなのでございますか」
「さあ、わたしとしたことが、館《やかた》を出る時には確かに目あてがあって出て来たのですが、今となっては、どこへ行きましょうか、どこへ行かねばならないのか、それもわからなくなってしまいました」
「城南に行かんとすれば南北を忘る――というところですね」
「いや、そうではありませんでした、月に乗じて、わたしは近江の湖畔まで行って見るつもりで出て参りましたのです」
「湖畔ですか、つまらないじゃありませんか、もう少し変ったところへ出て見たいとお考えにはなりませんか」
「さあ、変ったところと言いましてもね、あれから舟を湖中に浮べて湖上の月を見るとか、竹生島詣でをして島の月をながめるとかいった程度のものでございましょう」
「そういうことは誰もやっておりますし、誰にもやれないということのない風流なのです、あなたとしては、もう少し規模の変った風流を遊ぶ気にはなれませんか」
「とおっしゃっても、風流というものの程度も、種類も、大抵きまったものではありませんか、土地を換え、仕方を変えてみましたところで、新月が円く見えるわけのものでもなし、月の色が変って見えるというわけのものでもなし」
「さあ、天界と風土は、たいてい変らないものですけれど、人界のことは大変りです、もう少し変った人間社会のことに、風流を味わってみるお考えはございませんか」
「有りますとも。有るには有るけれども、人間社会のことと言ったって、そう非常な変り方というのは有るものじゃありませんね、要するにみんな型がきまっていて、音色が変っているだけのものなんで、そう見たいとは思いませんね」
「それは、そうとしましても、あなたはまだ、天子の都を御存じはないでしょう」
「京都ですか」
「京都と限ったわけはございません、帝王の都の風流をあなたは、まだ御存じがないようです、どうです、私と一緒に長安までおいでになりませんか」
「長安とは――」
「唐の都なのです、そこへ、あなたをひとつ御案内をしてみたい、そうして、帝王の都の風流というものが、あなたの反抗心といったようなものを、どんなふうに刺戟《しげき》するか、それをわたしは拝見したいのです」
「では、連れて行って下さい」
 お銀様は、一も二もなくこの唐代の美少年の誘惑に乗ってしまいました。

         七十

 同じころおい、江戸の築地の異人館のホテルの食堂に、卓《テーブル》を前にして、椅子の上にふんぞり返っているところの神尾主膳を見ました。
 床をモザイク式に張った広間の向うの洋風のダムベル式のバルコンを通して、芝浦一帯が見える。それを、わざと背にして神尾主膳は椅子に腰かけて、ふんぞり返っている。大テーブルには洋式の器具調度が連ねてある。本来一卓子に八人|乃至《ないし》十人も会食するようになっているのを、ここでは主膳が食いおわったわけではあるまいが、十人前の椅子のうち八つは空明きになって、その一つに神尾がふんぞり返っていると、それと向い合って、少し下手《しもて》に、下手といっても床の間があるわけではないが、向って左の方に六尺もある大きな四角なガラス鏡が据えてある、そこのところから二三枚下の方の椅子に腰を下ろして追従笑いをしているところのものがある。それは、おなじみの金公という野だいこ兼|千三屋《せんみつや》の男である。そのほかには人がないから――
 海の方は、ずっと黄昏《たそがれ》の色が捨て難い風光を見せているけれども、神尾はそちらに面《かお》を向けて、新月がどうのこうのと気づかいをするでもなく、そうかといって、室内にはもはや高くランプが光り出して、その光を受けた六尺大の四角なガラス鏡が、まばゆく光り出したけれども、主膳はそれをのぞいて見るでもなく、むしろ、その反射をも避けるもののように、鏡面に自分のうつることを厭《いと》うかのように、避けて座席を構えている調子がよくわかるのです。
 しかし、この男、只今は、乱に到るほど酔ってはいない。酒気は充分に見えるけれども、乱に及ばない程度で食い留めて
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