ない非業《ひごう》の最期《さいご》を遂げました――
といういちぶしじゅうの物語を幸内の口から聞かせられて、お銀様は、
「それはお前の話が少し違うようだ、わたしの記憶している昔話では、お内儀さんが訴えて出ると、その若い番頭が直ぐに捕えられてお処刑《しおき》にかかったが、お内儀さんの方は、最初からその気持でやらせたわけではなし、直接にも、間接にも、夫殺し、主殺しに、手を下したわけではないのだから、おかまいなしということになったけれども、お内儀さんは、なんにしても自分は夫と名のつくものを二人まで殺してしまったのだから申しわけがないと言って、子供はみな親類へ預け、自分は寺へ入って尼になって一生を送ったというではないか」
そう言われると幸内は、
「それは、どちらが本当か、わたしはよく存じませんが、埋める穴を二つ掘らなければならない現状はごらんの通りなのでございます。そんなら、このお内儀さんは別の人なんでございましょう。私としては、事件の真相などは、どちらでもかまわないのでございますが、そうでした、頼まれた仕事だけはして上げないと兵作さんがかわいそうでございます。では、お嬢様、この辺で、私はお見送りを失礼いたしまして、これから立帰って穴入りを致しますから、これで御免くださいませ」
と言って、幸内は後ろを向いて以前の墓地の方へ取って返した時分には、お銀様の姿は再び松柏の森の中に隠れてしまいました。
六十九
それから、かなり深い松柏の森の中を抜けきって、こなたの裾野へ現われたお銀様は単身でありました。
ところが愛すべき新月は、相も変らず前額にかかって、お銀様の姿を見守りながら下界を照らしているもののようです。
裾野とはいうけれども、もうここへ来ると、限り知られぬ広野原の感じです。胆吹《いぶき》、比良、比叡《ひえい》、いずれにある。先に目通りに水平線を上げた琵琶の水も、ほとんど地平線と平行して、大野につづく大海を前にして歩いているような気分です。
お銀様は月に乗じて、この平野の間を限りなく歩み歩んで行くと、野原の中に、一幹《ひともと》の花の木があって、白い花をつけて馥郁《ふくいく》たる香りを放っている。その木ぶりも、太きに過ぎず、細きに失せず、配置に意を用いて植えたようなたたずまいですから、お銀様はその木ぶりを愛して、その香りに心を酔わしめられました。
ああこれは桂の花――と、お銀様の心がいよいよときめいて、その木の下に近づいて行くと、その幹の下に、木ぶり、花ぶりにふさわしいところの人が一人|彳《たたず》んでいました。
「ああ、新月、何とよい月ではありませんか」
花の木の下に彳《たたず》んでいた、木ぶりにふさわしい人が、先方からお銀様に呼びかけたのであります。
「よい月でございますね」
とお銀様が受けこたえつつ、その人を見ますと、木ぶりには、しっくり合っているけれども、服装は全く見慣れない人でした。最初は奈良朝のそれと思って見ましたけれども、冠もちがえば、色彩の感じもちがう、これは支那の唐代の服装だと見てとってしまいました。それはまさしく、支那の唐代の風流貴公子といった、仇英《きゅうえい》の絵なんぞによくある瀟洒《しょうしゃ》たる美少年なのでありましたが、
「あなたは、この新月がお好きだそうでございますね、さきほど『長安古意』の、繊々《せんせん》たる初月、鴉黄《あおう》に上る……を口ずさんでおいでのを承りましたよ」
「そうでしたか、よくまあ」
お銀様は、この唐代の美少年の面《かお》を見直そうとしました。同時に、今宵はまたよくも、人の気を見る相手にばかり出くわすことだ。さいぜんの穴掘りも、こちらが何とも言わない先に、こちらの意のあるところを見抜いたように行動したが、今のこの美少年もまた同じような妖言を言う。なるほどちょっと先刻、新月の空を見て、胸の中に「繊々たる初月、鴉黄に上る」という一句を無意識に思い浮べて、その昔、疑問を晴らすべく書庫を漁《あさ》って、解決つけたことの記憶を呼び起したには起したが、なにもその句をひそかに口ずさんだわけでもなく、声高く吟じ出でたでもないのに、この美少年に、こんな小賢《こざか》しい言い方をされると、自分の腹の中まで探られるような気がして、小癪《こしゃく》にさわらないでもない。しかし、たった今の陰惨な人生の終焉地《しゅうえんち》から、思い出の決して快いものでない昔馴染《むかしなじみ》に送られて、罪と罰とのかたまりを見せつけられるような道づれよりは、ここに華やかな唐代の貴公子の誘惑を蒙《こうむ》ることが、さんざめかしいというような気分にもなりました。
今は昔の初恋の人でないお銀様は、幸内の思い出なんぞにそう深い追懐を払ってやるがものはないといったふうに、かえってこの異国の風流
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