いるようにも見え、またところがら、容易に勃発せしめては不利益になるという人見知りの警戒心も多少加わって、なんとなく無気味な沈黙のうちに、こうして椅子にふんぞり返って、不平満々の体《てい》であるその前に、金助がお追従を並べているのです。
「殿様、拙《せつ》も近ごろ改名を致したいと、こう考えておりやすんでげすが、いかがなもんでげしょう、金助ってのは、少しイキがよすぎて、気がさすんでげす――河岸《かし》の若い者か、大部屋の兄いでげすと、金助ってのが生きて飛ぶんでげす、なにぶん今の拙の身では、少々イキが好過ぎて気がさすんでげすが、なんと、殿様、いかがでござんしょう、ちょっと拙の柄にはまった乙な名前はござんせんでしょうか、ひとつ、殿様の名附親で、改名披露ってなことに致したいもんでげすが……」
 相も変らず歯の浮くような調子で、こんなことを言って並べると、苦《にが》りきっている神尾主膳が、
「ナニ、金助でいけねえのか、金助という名が貴様には食過《しょくす》ぎるというのか。なるほど、近ごろは金の相場もグッと上ったからな、金という名は全く貴様らに過ぎている、どうだ、鐚助《びたすけ》と改名しては、びた公、びた助、その辺が柄相当だ」
「びた助でげすか。びた公、一杯飲め――なんて、あんまり有難くございませんな、いったいびた[#「びた」に傍点]てえのは、どういう字を書くんでげすかね」
「金偏《かねへん》に悪という字を書くんだ」
「金偏に悪という字でげすか、ようござんせんな、びた銭一文なんて、全く有難くござんせんな、金偏に悪と書いて、びたと読ませるんでげすか、三馬《さんば》のこしらえた『小野の馬鹿むら嘘字《うそじ》づくし』というのを見ますると、金偏に母と書いてへそくり[#「へそくり」に傍点]と読ましてございますな、金偏に良という字なんぞを一つ奢《おご》っていただくわけには参りますまいか」
「金偏に良なんていう字は無い、びた助にして置け、びた助、その辺が相当だ。これびた[#「びた」に傍点]公、何か珍しいものを御馳走しろ、どのみち、毛唐《けとう》の食うものだから、人間並みのものを食わせろとは言わねえ、悪食《あくじき》を持って来て、うんと食わせろ」
と神尾は、これから持運ばれようとする食物の催促を試みると、金助改め鐚助が、心得顔に、
「殿様、とりあえず牛《ぎゅう》を召上れ、まず当節は牛に限りますな、ことに築地の異人館ホテルの牛の味と来ては、見ても聞いてもこたえられねえ高味《こうみ》でげす」
「ギュウというのは牛のことか」
「左様でげす――」
「一橋の中納言は豚を食って豚一と綽名《あだな》をつけられたくらいだから、牛を食っても罰《ばち》も当るめえ」
「罰が当るどころの沙汰ではございません、至極高味でげして、清潔無類な肉類でげす、ひとたびこの味を占めた上は、ぼたんや紅葉《もみじ》は食えたものじゃがあせん」
「そうか、牛というやつは清潔な肉かい」
「清潔でございますにもなんにも、こんな清潔なものを、なぜ日本人はこれまで喰わなかったのでげしょう、西洋では千六百二十三年前から、専《もっぱ》ら喰うようになりやした」
「くわしいな、千六百二十三年という年紀を何で調べた」
「福沢の書いたものでも読んでごらんあそばせ、あちらではその前は、牛や羊は、その国の王様か、全権といって家老のような人でなけりゃあ、平民の口へは入らなかったものでげす、それほどこの牛というやつは高味なものでげす、それを日本ではまだ野蛮の風が失せねえものでげすから、肉食をすりゃ神仏へ手が合わされねえの、ヤレ穢《けが》れるのと、わからねえ野暮《やぼ》を言うのは、究理学をわきまえねえからのことでげす」
「ふーん、日本は野蛮の風が失せねえから、それで肉食をいやがるのだと、これは笑い草だ、生き物の肉をむしゃむしゃ食う毛唐の奴の方が野蛮なんだ、勝手な理窟をつけやがる」
と神尾が冷笑しました。本来、びた公の言うことなぞは、冷笑にも、嘲笑にも価《あたい》しないのですが、こんなことをべらべら喋《しゃべ》るのは、何か相当の受売りなのである。文明めかす奴があって何か言い触らすものだから、こういったおっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]どもがいい気になって新しがる。それを金助の説として聞かないで、その当時の似非《えせ》文化者流の言葉として聞いて神尾が、冷笑悪罵となったのを、金公少々ムキになって、
「いや、神尾の殿様、お言葉ではげすが、毛唐が勝手な理窟をつけるとのおさげすみはいささか御了見《ごりょうけん》違えかとびた助は心得まする、第一、あっちは、すべて理で押して行く国柄でげして、理に合えば合点《がてん》を致しまする、理に合わないことは、とんと信用を致しませぬ、勝手な理窟を取らぬ国柄でげしてな。たとえば蒸気の船や、車のしか
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