傍点]の奴、今頃は、もう疾《と》うに国越しをしてしまって、とまりとまりの旅籠屋《はたごや》で、いいかげんうだりながら――鶏《とり》がなくあずまの方へ行ったか、奈良のはたご[#「はたご」に傍点]や三輪の茶屋なんかと洒落《しゃれ》のめしているか、わたしゃそんなところまでは知らないけれど、残されたこっちこそ、いい面の皮さ」
 この女相当の八ツ当りを、兵馬にまともに向けるから、それは上《うわ》の空《そら》に聞き流して、自分は自分としての、このごろの身辺雑事をあれかこれかと空想に耽《ふけ》っている時、外で夜廻りの音を聞きました。
 夜廻りの拍子木の音を聞くと、兵馬は膝を立て直し、
「それはそうと、もう時刻も遅い、お暇《いとま》します、冗談はさて置いてそれをお返し下さい」
 真剣そのもので、福松がさいぜんから後生大事に抱え込んでいる両刀を指して促すと、福松どのは、一層深く抱え込んで、頭《かぶり》を振り、
「いけません」
「冗談もいいかげんにしなさい」
「冗談ではございません――わたしは真剣に申し上げているんでございますよ」
「では、どうしようと言うんだ」
「今晩はあなたをお帰し申しません」
「帰さないというて、ここは拙者の泊るところではない」
「はい、あなた方のお泊りになるところではございません、あなた様にはほんとうにお羨ましいお宅がおありでいらっしゃいます、でもたまにはよろしいじゃございませんか、今晩はおいやでもこちらへお泊りあそばせな」
「何を言ってるのだ」
「あなたもずいぶん罪なお方ねえ」
「たわごとを言わず、穏かに言っている間に、返すものをお返しなさい」
「ねえ、宇津木様、わたし今晩は大へんしつっこいでしょう、わたしだって張店《はりみせ》のおばさんみたように、こんなしつっこい真似《まね》はしたくはないんですけれど、そうして上げなければあなたのおためにはならないわけがあるんですから、こうしてあげるのよ、今晩は泊っていらっしゃい」
「滅相な」
「あなたはそんなきまじめなお面で、うぶな御様子をなさいますけれど、本当のところは、どうしてずいぶんな罪作り――残らずこっちには種があがっていますから、それを白状なさらなければかえして上げません」
「何か、拙者が後暗いことでもしていると申されるのか」
「ええ、そうでございますとも、あなたという人こそ本当に見かけによらない、イヤな人です、憎らしいお方、もうすっかり種が上っていますから隠したってだめよ」
「そちらに種が上っているのなら、なにも改めて拙者にたずねるには及ぶまい――どれ」
 兵馬は苛立《いらだ》って、もう、こうなる上は、手ごめにしても刀を奪い取って差して帰るまでのことだ――と立ちかけた時、
「ア、痛ッ!」
と不覚の叫びを立てたのは、相手の女ではなくてかえって自分でした。
「憎らしい!」
 女は今まで両の袂で後生大事に抱きかかえこんでいた兵馬の両刀を、左の片袖だけで抑え換えて、そうして、右の片手をのべると、いきなり、苛立って立ちかけていた兵馬の左の股《もも》のところを――イヤというほど――つねりました。武術鍛錬の兵馬が、もろくもこの不意打ちを食って、「ア、痛ッ!」「憎らしい!」
 今晩のこの女は、憎らしい! と、口惜《くや》しい! との連発です。
 思うさま不意打ちを食わして、兵馬を痛がらせた福松は、ここで、やや勝ち誇った気位を取り返し、
「それ、ごらんなさい」
 何がそれごらんなさいだか、兵馬には一向わからないのを、福松どのは畳みかけて、
「痛かったでしょう――わが身をつねって人の痛さというのがそれなんですから、よく覚えていらっしゃい。あなたという人も、このごろは相応院の離れ座敷で、お安くない世話場を見せていらっしゃるんですってね、相手はお雪ちゃんといって――知っていますよ、知っていますよ。いいえ、お隠しになっても、もう駄目です、そのお雪ちゃんという可愛ゆい子を、あの助平のお代官の手から、助けたり、助けられたりがもとで、お二人が水入らず、近いうちに御両人がまた手に手をとって道行という筋書まで、ちゃんとわたしには読めておりますのよ――憎らしい! 口惜しい! 覚えていらっしゃい」
 また刀を一方の袖だけに持たせて、右の手をさしのべて――それは以前よりもいっそう手強く兵馬の股を抓《つま》み上げてやる気で出した手を、今度は兵馬も容易《たやす》くそうはさせません。
「何をなさる」
と言って、その手をぐっと抑えたが、思いの外に軟らかな手ざわりなのに、抑えた兵馬の方がかえってギョッとしました。

         八

 きまじめな宇津木兵馬は、そこで福松のために、自分とお雪ちゃんとの間が、決してそんなわけのものでないことを説明しました。
 それから、お雪ちゃんの立場の気の毒であることをよく話して聞かせ
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