、しかもこのお雪ちゃんも、つい数日前に自分には何とも告げずに行方不明になってしまったことによって、自分の心配がいっそう加わっていることなどを、細かに話して聞かせると、最初から妬《や》け気味で聞いていた福松が、だんだん釣り込まれて、お雪ちゃんのために同情を表すると共に、兵馬にとって好意を持ち――はじめから悪意なんぞは持っていなかったのですが、少なくともその不真面目な、からかい気分を投げ捨ててしまいました。
そこで、質に取った両刀も無事に返してもらい、この遅くなって帰るという兵馬をも引止めないで、素直に送り出してくれたのです。
かくて兵馬は無事に相応院へと帰って来ました。そこで燈火をかかげて、冷えたお茶漬をさらさらと掻込《かきこ》んでしまったが、そのまま床をのべて休む気にもならないで、何やら取りつかれたもののように、膳を前にしてぼんやりと考え込んでいるのです。
お雪ちゃんに行かれた物淋しさ――のみではありません、今晩はなんとなく、何かを取落して来たような気持がしてなりません。
ホッと息をついて、眼の前の松の金屏風《きんびょうぶ》をじっと眺めていましたが、鶏が鳴く声に驚かされて、さてと立ち上って、寝具をのべて――それは以前、机竜之助が隠れていて、かわいそうに貸本屋の政公を手ごめにした一間なのです。
そこで手早く衣類を改めて枕について、まだ眠りもやらでいる時分のことでした、外で、
「モシ」
これには兵馬も聞き耳を立てないわけにはゆきません。
いったん枕へつけた頭もろともに、半身を持上げていると、
「モシ」
戸外《そと》でするは女の声。
もし兵馬が竜之助であったならば、これは当然、政公が甦《よみがえ》って恨みに来たものと聞いたでしょう。或いはまた兵馬が神尾主膳であるならば、藤原の幸内が迷って出たと思うよりほかはないような突然の声でしたけれど、物の怨霊《おんりょう》の恨みを受ける覚えのない兵馬は、その現実の声に耳をすますと、
「宇津木様、ここ、あけて頂戴な」
やはりお雪ちゃんではなかったのです。
「福松ではないか」
「はい――早くさ、早くあけて頂戴よ」
兵馬は全く機先を制せられてしまい、あけるもあけないもなく、もう起き上ってしまって、やえん[#「やえん」に傍点]に手がかかると、雨戸がからりとあきました。
「何しに来たのだ」
「御免なさいね、宇津木さん」
女というものは、どうして、どれもこれもこう図々しいものだろう、もう座敷へ上ってしまいました。
「どうしたのです」
「わかってるじゃありませんか、逃げて来たんだわ」
「どうして」
「どうしてでもありゃしません、あなたのおあとを慕って参りましたのよ」
「ちぇッ、軽はずみのことをしたもんだな」
「軽はずみなことがあるものですか――わたしは、あなたを頼るのが一番たしかだと、つくづく思案を重ねた上の覚悟なんですから」
ここでまた、宵のこととは異った場面で、二人は相対坐しなければならなくなりました。
「もう致し方がございません、もしあなた様が御迷惑とおっしゃるなら、わたしは死ぬばかりでございます、こうしてこのままこの土地にいつかれるものかどうか、少しはわたしの身にもなってごらんなさいましな。それは何も悪いことさえしていなければ、いくらお取調べを受けても何ともないはずとおっしゃいますけれど、人気商売のわたしたちは、もうこれだけで、商売は上ったりなんです。それだけならまだようござんすけれど、本当の罪人が出なければ、渡り者のわたしなんぞが、差しむき一番いい人身御供《ひとみごくう》なんでしょう、ですから、お役人のお手心によって、いつ、どういう目に逢わされるかわからないじゃありませんか。それは、そういう無茶なことはない、むじつ者[#「むじつ者」に傍点]を捕えて罪に落すなんぞということは、いくらお役目とはいえ、そう滅多にやれることではないとおっしゃるかも知れませんが、それは、世間の明るい時節なら知らぬこと、この飛騨の国の奥で――お代官のお政道向きの評判のよくないところで通用する筋道ではございません。あなたのようなお方が、まだお一人でもこの土地に残っておいでのうちは宜しうござんすけど、そうでなければ、わたしなんぞはいいようにさいなまれてしまいます。ですから、同じことなら、お蘭さんのようにはしっこく[#「はしっこく」に傍点]は参りませんけれど、足許の明るいうちに逃げてみようという気になったのが無理でございましょうか」
「そんなら、これから、どこへどう逃げようというのだ」
「それだけは、わたし、もうこの頃中から考えて置きました、表通りはいけません、お蘭さんのように、要領よくやってしまえば格別ですが、今となっては、表から美濃や尾張へ逃げ出そうとするのは、網にひっかかりに行くようなものでございます
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