当人でありながら、逸早《いちはや》くこの土地を身抜けをして、その飛ばっちりを、すっかり自分に背負わせて行ってしまったところのお蘭さんなる者に向けて、恨みを述べているのだかわからない。
「ほんとに憎らしいのは、あの人よ、お代官の生きている間には、腕によりをかけてさんざんたらしこんでさ、災難の時は自分だけいい子になってあと白浪――わたしなんぞは商売人のくせに、腕もないし、知恵もないし、それにまた憎いのは、あのがんりき[#「がんりき」に傍点]という兄さんよ――なあに、兄さんなことがあるものか、あのおっちょこちょいのキザな野郎、あいつも憎らしいったらありゃしない……」
 今度はまた、全く別な方角へ飛び火がして来たらしいが、兵馬は、いかんともその火の手の烈しさに手がつけられない。

         七

 和泉屋の福松は、がんりき[#「がんりき」に傍点]と言い出してまた躍起となり、
「ほんとに、いやな奴たらありゃしない、三千世界の色男の元締はこちらでございってな面《かお》をして、手んぼうのくせに見るもの聞くものにちょっかい[#「ちょっかい」に傍点]を出したがるんだから、始末が悪いことこの上なし、そうして、御当人のおのろけによると、そのちょっかいというちょっかいが、十のものが十までものになるんだそうだから、やりきれない、キザな奴、イヤな奴――」
 福松どのは、がんりき[#「がんりき」に傍点]のことを、噛んで吐き出すように言いだしたけれども、相手が宇津木兵馬だから、あんまり手答えがないのです。
 兵馬でなかろうものなら、ははあ、そうかね、そういった色男の本家がこの辺へお出ましになったものと見えますな、ところでその、御当家には、格別の御被害もございませんでしたかね、そのちょっかい[#「ちょっかい」に傍点]とやらの味はいかがなものでございましたか、なんて揶揄《からか》ってみたいところだろうけれども、相手が兵馬だから、そんな軽薄な口を叩くわけにはゆかないのです。手答えが無いだけ張合いも無いと言えば言えるかも知れないが、相手がまたおとなしいだけに、こちらもまた思う存分言ってのけられる自由があると見えて、福松どのはかさにかかりました。
「ほんとにイヤな奴、キザな奴、あのくらいイヤな奴も無いものですけれども、でもわりあいに度胸があるんですよ、お宝の切れっぱなれもいい方でしてね、やっぱり男はね……」
 おやおや、また風向きが変って来たぞ。兵馬が黙って聞いていると、
「色男てものには、お金と力は無いものと昔から相場がきまっているのに、あのイヤな奴、妙に色男ぶるくせに、あれで度胸があって、切れっぱなれがよくって、で、口前がなかなかうまいものだから――口惜《くや》しいわ。わたし、どうも、とうからお蘭さんと出来てるんだと睨《にら》んでいるのよ。相手がお蘭さんだからたまりませんわね、あの男前と……口前じゃたまりませんよ――」
 福松どのの悲泣がいつしか憤激となって、最初は口でけなしていたがんりき[#「がんりき」に傍点]なるやくざ野郎を、結局、度胸があって、お金の切れっぱなれがよくって、口前がいい、色男の正味を肯定するような口ぶりになってしまうと、今度は鉾先《ほこさき》がお蘭さんなるものの方に向って、しきりにそのお蘭さんをくやしがるものですから、兵馬は自然、過ぐる夜のことを思い起さないわけにはゆきません。
 つぶし島田に赤い手絡《てがら》の、こってりした作りで、あの女から夜中に襲われた生々しい体験を持つ宇津木兵馬は、その時のことを思い出すと、ゾッとしてしまいました。あの時、「ねえ、宇津木様、うちの親玉にもたいてい呆《あき》れるじゃありませんか、きのう市場でもって、ちょっと渋皮のむけた木地師《きじし》の娘かなんかを掘出してしまったんですとさ、そうして、今晩から母屋《おもや》の方で一生懸命、口説《くど》き落しにかかっているんだそうですよ。ですからこっちなんぞは当分の間、御用なしさ、見限られたものですね」
 それから、自分の枕許《まくらもと》に、だらしのない姿で立膝をしながら、若いのは若いの同士がいいか、また若いの同士では、食い足りないから、油ぎった大年増を食べてみる気になったりするのじゃないか、穀屋《こくや》のイヤなおばさんがどうの、男妾の浅公がどうのと、口説《くど》きたてたあの厚かましさ。
 ところでその前の晩、戸惑いをして自分の寝間へ紛れこんだ怪しい奴がある。あれが、どうも、このいけ図々しい大年増を覘《ねら》って来て、戸惑いをしたものとしか受取れない。
「いかにも、そのがんりき[#「がんりき」に傍点]とやらいうならず[#「ならず」に傍点]者が怪しい」
「怪しいにもなんにも……」
 福松はいっそう声を立てて、
「ほんとうに、あのお蘭のあまとがんりき[#「がんりき」に
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