全くあしらい兼ねているものの、いつまでも黙ってもいられないので、
「そういうわけではない、なにも拙者が君を捨てて、この地を立とうというわけもなし、また君にしてからが、拙者に捨てられたからといって、左様に泣き悲しむ筋もあるまい――拙者には君の感情の昂《たか》ぶっている理由がわからないのだ」
「そりゃ、おわかりにならないでしょう、あなた様なんぞは、立派な男一匹でいらっしゃるから、今日は信濃の有明、あすは飛騨の高山、どこへなり思い立ったところへ、思い立った時にいらっしゃる分には、誰に御遠慮もございますまいけれども、わたしなんぞは……わたしなんかは……そうは参りません……」
「拙者とて酔興で他国を流浪しているわけではない、行くも、とどまるも、それはおのおの生れついた身の運不運、如何《いかん》とも致し難い」
「如何とも致し難いですましていらっしゃられるのが羨《うらや》ましうございますわ、少しはわたしたちの身にもなってごらん下さいましな」
福松はここでまた、さめざめと泣きました。
兵馬は挨拶をつづくべき言葉を見出すに苦しんでいると、
「胡見沢《くるみざわ》の御前《ごぜん》があんなにおなりになると、お蘭さんという人はどうでしょう――足もとの明るいうちに真先に逃げてしまいました。抜け目はありません、恐れ入ったものですね、全くあの人には――あの人なんぞこそ、うんと責めてお調べになれば、きっと何かしら立派な種があがるに違いありませんわ。なにもあのお蘭さんが、糸を引いてあんな大事を持上げたとは言いませんが、あの人を除いてはこの事件の手がかりはつきませんね」
「うむ」
「わたしは、お蘭さんに泥を吐かしてみさえすれば、今度のことだって、あらましの筋はわかるにきまっていると思われてよ。ところがどうでしょう、悧口《りこう》じゃありませんか、どのみち、事面倒と見たから、あの方は、その晩のうちにこの土地をすっぽかしてしまいました。天性悧口な人は、どこまでも悧口に出来ていますのねえ。抜け目のない人は、一から十まで抜け目がありませんのね。それに比べると、わたしなんぞは、わたしなんぞは全く、この世の馬鹿の骨頂でございますよ」
と言って、芸者の福松は泣きじゃくりながら、ちょっと見得《みえ》をきるように面《かお》を上げて、兵馬を斜めに見ました。
「ふーむ」
「ふんぎりもつかず、引っこみもつかずにうろうろしているもんですから、何のことはないお蘭さんの投げた株を引受けて、追敷きを食わされ通し……全くいい面《つら》の皮《かわ》ですわ」
「それを繰返すのは愚痴だ、自分でいま言っている通り、災難と諦《あきら》めて、何もこっちに疚《やま》しいことさえなければ、素直《すなお》に、幾度でもお呼出しを受けるがよい、訊《たず》ねられたらば、知っている通りを洗いざらい返答してしまい、知らないことは知らないと正直に通せばいいのだ」
「そうおっしゃられると、それまででございますけれどもね、これでも人間の端くれでございますから、苦しいと思うこともあれば、癪《しゃく》にさわることもありますのさ。わたしもお蘭さんのように、自由が利《き》く身でありさえすれば、こんなところに、こうしてばかばかしい祟《たた》り目の問屋を引受けてなんぞいるものですか――どうにもこうにも動きの取れないわたしという者の身の上を、少しはお察し下さいましな」
「それは、人の運不運で、やむを得ないことだと言っているのに」
「運不運なんて言いますけれど、それはたいてい意気地なしの言うことですね――しっかりした人は、自分で自分の運を切り開いてしまいますからね。不運のものも運のいいように取返してしまいますからね。早い話がお蘭さん――」
この女はよくよくお蘭さんの身の上が羨ましいものと見える。そうでなければ、よくよく憎らしいものと見えて、一口上げにお蘭さんが引合いに出て来る。
「お蘭さんなんかも、運不運だなんておとなしくあきらめて、この土地にぶらついていてごらんなさい――今頃はどんなことになっているかわかったものじゃありません、それを知っているから、ああして抜け目なく逃げてしまいました。残されたわたしたちこそ全くいい面の皮、お蘭さんの分まですっかり被《かぶ》って申しわけをしなければなりません。お蘭さんさえおいでなされば、わたしなんぞこのたびの事件についちゃ物の数には入らないのですが――お蘭さんの分をわたしが被ってしまって、日日毎日《ひにちまいにち》……ほんとうにお蘭さんという人は、今頃は誰とどうして、どういう了見で、どこの土地を遊び歩いておいでなさることやら、憎らしい!」
福松は歯がみをして、後《おく》れ毛をキリリと噛《か》みきりました。これは当面の兵馬に向けて怨《うら》み言《ごと》を言い立てているのだか、自分よりこの事件に一層直接な
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