という語を以てすることをお銀様が納得している。お銀様はむしろ令嬢として扱われるよりは、奥様と呼びかけられることを本望としているらしくも見える。
してみれば、この牛飼の少年も、多分、お銀様の新植民地の建前工作にあずかっている人数のうちの、家族の一人であることが推察されないでもない。ただ、不審といえば不審というべきは、こんな少年を、あの工事中のいずれに於てもまだ見かけなかったこと! この少年が鄙《ひな》に似合わず、目鼻立ちの清らかなということにありました。
「ちょっとお待ち」
やり過ごして置いてから、お銀様が、何のつもりか、後ろからその少年を呼びとめたものです。
しかしながら、その子供は見向きもしないで、さっさと行ってしまいます。多分、お銀様から呼ばれた言葉が聞えなかったのでしょう。しかし、お銀様は強《し》いて、声を高くして再びそれを呼び返そうとはしませんでした。
六十二
そうしているうちに、お銀様の身は、いつか大きな松林の中へ隠れてしまいましたが、また暫くあって、その松林の一方から姿を現わしたところは、不祥ながら、それは一つの卵塔場《らんとうば》でありました。つまり、人間の生命《いのち》のぬけがらを納めた墓地という安楽所の一角へ、思わずお銀様は足を踏み入れてしまったのです。
しかし、これは、ああ不吉! と言って引返すお銀様ではありません。これを突っ切ることが目的地に達するに近路だと考えれば、必ずその通りに進んで行くに相違ない。果して、お銀様はその荒涼たる墓地の中の細道を分けて進んで行くと、墓地の中に人の声がしました。いや、人の声よりも先に鍬《くわ》の音がしたのです。鍬を使う人があって、それがカチリカチリと小石に当って土をほごす音が、一層その場の情景を陰惨なものにしましたけれど、情景そのものよりもお銀様は、鍬の音と、その音をさせる主との何者であるかに眼を放ちました。
薄暗い墓地の中ほどに、一人の男が半身を土に没して、しきりに大地を掘っている。大袈裟《おおげさ》に言えば、地球の一部分を破壊しているのです。それが当然、墓地の領土の中である以上は、無意味に大地を破壊しているわけでもなし、また耕作のために開墾しているわけでもありません。穴を掘っているのだということが一目でわかります。
穴を掘るとは言うけれども、土のどの部分をでも穿《うが》ちさえすれば必ず穴にはなるのですけれども、ここの場合に於ては特にそれが違う。ここで穴を掘るのは、掘るその約束がある。つまりここで穴を掘ることは、人間の生命を埋むべきために掘るので、人間の生命を埋むるために大地を破壊することが公然と許されるのは、単にこういう地点だけに限ったものなのです。
しかし、普通ならばこの際、お銀様も、わざわざ特にそういう人が不吉な作業をしている特種地の一角まで足を枉《ま》げて見ることはしなかったでしょうが、どうも、分けて行くこの細道が、その「穴掘り」作業の傍らを通らないことには、これを突切ることは不可能の道筋になっていましたから、そこで、やむなく右の「穴掘り」人足の鍬を持っている方へと近づいて、ついその眼と鼻の先まで来ると、先方が早くも鍬を休めて、そうして頬かむりをとって、恭《うやうや》しく、そちらから挨拶をしたものです――
「これは奥様――おいでなさいまし」
はて、この男はよそ目もふらず鍬を使っているとばかり信じていたら、いつか早や、自分のここへ来たことを知っていた。いつのまに、どうして気がついたろうと、お銀様が不思議がって、その頬かむりを取った面《かお》を見ると、これはこの頃中、よく自分の方の建築工事に手伝いに来ている兵作という朴訥《ぼくとつ》な男でありました。
「兵作さんでしたね」
「はいはい」
「何ですか、おとむらいですか」
「はい、どうも、よんどころなく、この方を頼まれたものでございますから」
「村の方ですか」
「いいえ、はい、その……」
兵作の返事が、しどろもどろになるのは、何か特別に意味がありそうです。
「どうしたのです」
お銀様もしつこく[#「しつこく」に傍点]それをたずねてみる気になりました。
「どうも、誰も頼まれて上げるものがございませんから、つい……わっしにおっかぶせられてしまいました」
「それは、どうして」
お銀様は、不承不承な兵作の態度を、合点《がてん》のゆかないものだと思いました。
六十三
なぜならば、誰も好んで墓場の「穴掘り」をやりたがるものはなかろうけれど、それを職業とする者のない田舎《いなか》では、当然村人が代り番にそのおつとめをすることになっている。当番に当れば免れ難いことになっているのを例とする。そこで、これは自治体としても、隣人同士としても、必然の義務になっているのだから、特
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