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繊々初月上鴉黄
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という句なのであります。これは、あながちお銀様に限ったというわけのものではなく、誰しも唐詩を知るほどのものにして、新月を見た最初の感情として、まずこの句を思い浮べないものはないでしょう。
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繊々たる初月《しょげつ》、鴉黄《あおう》に上《のぼ》る
[#ここで字下げ終わり]
初月は即ち新月であって、その文字の選び方に於て、少しも原意を損ずることはないのみならず、繊々たるという畳語《じょうご》のほかに、初月そのものを形容する漢字はないといってもよいくらいです。
だが、お銀様にとっては、この「繊々初月上鴉黄」という一句が、また、なかなかに恨みの余音《よいん》を残している一句でありました。
六十一
お銀様はその好きな新月を、よく故郷の空に於て見たものですが、その都度、やはり無意識に、「繊々初月上鴉黄」という一句を、まず念頭に思い浮ばしめられてくるのが習いとなっていましたが、最初のうちはただ何となしに、その一句が頭にうつり、それを無意識に口ずさんでみる程度のものでしたが、そのうちに、いつということなく一つの疑問に襲われたのは、「繊々たる初月」ということには何の異議もないが、「鴉黄に上る」というあとの半句が解しきれなかったのです。
鴉黄というのは何だろう。鴉という字はカラスという字だから、鴉《からす》がねぐら[#「ねぐら」に傍点]に帰り、空の色がたそがれで黄色くなる時分に、新月が上り出したという意味ではないかと、最初のうちは漠然と、そんなふうにのみ解釈していましたが、そのうちに、お銀様の研究癖が、単にそんな当て推量では承知しなくなりました。
そこで、書物庫へ入って古書を引出して取調べをはじめたことです。調べがすんでみると、全く予想だもしなかった意義と歴史とを発見することができました。鴉黄というのは、鴉のことでもなければ、黄昏《たそがれ》のことでもない。それには、想い及ばなかったところの濃厚な意味が含まれていると共に、お銀様の反抗心を、また物狂わしいものにしたところの、歴史上の重大なる描写と諷刺とのあることを、あの詩全体から発見するに至りました。
あれは申すまでもなく、盧照鄰《ろしょうりん》の「長安古意」の長詩の中の一句でありますが、何の意味となく誦していたところのものと、新たに取調べたことによって、お銀様はとりあえず、「鴉黄」というのは、唐の時代に於て、支那の風流婦女子によって盛んに行われたお化粧のうちの一つで、額の上に黄色い粉を塗って飾りとしたその習わしであることを知ってみると、「繊々たる初月」というのも自然の夕空の新月のことではなくして、その黄粉を粧うた美人の額の上に描かれた眉の形容であることを知るに及んで、漫然たる最初の想像が全く覆《くつがえ》されたのです。
ちょっとしたことでも、物は調べてみなければならない、学問上のことについては、独断であってはならないという自覚を、お銀様がその時に呼び起されてみると、同時に、ただあの詩の中の右の一句だけでなく、あの長詩全体に亘《わた》っての意味を味わわなければならないと、自家蔵本の渉猟にとりかかりました。
その結果が、お銀様を「長安古意」のたんのう者としたのみでなく、その作者であるところの盧照鄰という古《いにし》えの薄倖なる詩人に対して、同情と哀悼《あいとう》の心をさえ起さしめたのであります。
お銀様の頭には、今、この「長安古意」が蒸し返されて、あのとき受けた強い印象が、つい目の前に蘇《よみがえ》り迫って来るもののようです。
お銀様は、ただもう、その古詩を思い出すことによって、感情が昂《たか》ぶってきましたが、足許は焦《あせ》らずに、胆吹の裾野の夕暮を、じっくりと歩んでいるのです。
その時、不意に右手の松林の間から、叱々《しっしっ》と声がして、のそりと、一つの動物が現われ出しました。見ればそれは巨大なる一頭の牛が、後ろから童子に追われて、ここへ悠然と姿を現わしたものですが、牛は牛に違いないが、その皮の色が真青であることが、いとど驚惑の感を与えずには置きません。
それが行手に、のそりと現われたものですから、お銀様も少しくたじろぎました。しかし相手は牛のことであり、不意に現われたとはいえ、牛飼がちゃんと附いて、この温厚な動物を御《ぎょ》しているのだから、寸毫《すんごう》といえども恐怖の感などを人に与えるものではありませんでした。
「奥様、こんにちは」
牛飼の少年は、質朴に、そうしてさかしげにお銀様に向って頭を下げて通り過ぎようとしました。
「奥様」といったのは故意か偶然か知らないけれども、昨今ではあるが、みんな自分の周囲の出入りの者、見知り越しの土地の人などが自分を呼ぶのに、この「奥様」
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