しく会話と討論の酣わなるを聞き流していたが、その会話と討論は、いよいよ酣わになるばっかりで、いつ果てるとも見えないものですから、その点に於て辛抱なり難いものの如く、松の根方から、また静かに身を動かして、南庭から西の軒場へ歩み去る姿を見ると、それは覆面の姿であります。
覆面をしたからといって、辻斬りの本尊様ではなくて、女の姿であることによって、直《ただ》ちにそれと受取れる、それはお銀様の微行姿《しのびすがた》であります。
お銀様は、たしかにこの屋を訪れて、お雪ちゃんにでも何か用向きがあって来たものか、或いは何か他に目的があって来たのか、とにかく、尋常にこれへ訪ねて来て、この酣わなる会話と討論のために、その用向きを遠慮して、静かにこのところを去るのであります。
そこで、この女の人の姿が、館の後ろの叢《くさむら》の中に隠れてしまいましたが、暫くたつと、西へ離れて広々とした裾野の中に裾を引いて、西に向って歩み行く同じ人の姿を認めることができました。
こうして、ゆっくりと、西へ向って裾野に裾を引いて行くが、この道を西へ向って行く限り、昨晩のあのセント・エルモス・ファイアーに送られた異形《いぎょう》の人と同様の道に出でないということはありません。
かくてお銀様は一人、宵の胆吹の裾野を西に向って行く。西の空に新月が現われるのを認めます。琵琶湖の対岸の山々、雪は白し比良ヶ岳の一角から、法燈の明るい比叡の山あたりの連脈と見ておけばよろしい、その上の空へ繊々《せんせん》たる新月がかかりました。西へ向って行く限り、眼が明らかである限り、前途の山川草木の大観をすべて犠牲にしても、この新月一つを見ないで進むというわけにはゆきはすまい。お銀様は当然、新月の光をその額に受けつつ、西へ向って、そぞろに歩み行くのであります。
およそ月を愛する人で、新月を愛さないものはありますまい。名は新月というけれども、実は新月ではないのです。月の齢《よわい》を数える場合には、満月を処女として、それから逆算して、いわゆる「新月」をたけたりとしなければなりません。女で言えば、満月にむしろ娘としての花やかさがあって、新月に凄い年増《としま》の美がある。さればこそ里の子供らも満月を見ると思わずそれに呼びかけて、
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お月様いくつ
十三七つ
まだ年は若いな――
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と、満腔《まんこう》の若やかな親しみを寄せるけれども、新月を見て、そういう親しみを持ち得る子供はない。新月を見ることを愛するものは、やはり年増の味を愛することを知る人でなければならない。
そこで、「新月」の名はどうしても逆で、満月が新月で、それからだんだんにかけて行って新月になるというのが感情の上からは順当であるけれども、そうかといって、かけるほど、細くなるほど、老いたりとするのは当らない。いかにかけても、細くなっても、新月はやっぱり新月なのであります。満月が老い、朽ち、衰えて新月となるのではなく、満月が研《と》がれ、磨《みが》かれ、洗われ、練られ、鍛えられつくして、その精髄があの新月の繊々《せんせん》たる色と形とをとって現われるのであります。
ですから、四日月よりも三日月がよく、三日月よりも二日月に至って、まさに月というもののあらゆる粋《いき》と美とが発揮されてくるのです。そこで人は、彼に「新」という名を与えずには置かない。他の物象にあっては、老いということは衰を意味するけれども、月にあってのみは、老いが即ち粋となり、凄《せい》となり、新となる。
お銀様もまた、昔から、この「新月」が好きなのでありました。特に今まで、お銀様が「新月」が好きだという記録はこの作中には書いてなかったが、それは書く場所を見出さなかったから現われなかったまでのことで、かつて武州小仏の峠から、上野原方面へ迷い入った時に、たしかこの月影を西の空にうちながめたことがあったはずです。「新月」を好くお銀様は当然、「満月」というものを好かないのです。好くとか好かないとかいう純美淡泊なる感情も、この人に宿る時は、好きは溺愛となり、好かぬは憎悪《ぞうお》とまで進んで行き易《やす》いことは、当然の行き方でありました。
そこで、お銀様が新月が好きだという時は、全心をつくして好きになり、満月が好かない! という漠然たる感情が、満月は嫌いだ! という憎悪となり、やがて、満月の高慢が好かない、人が月見の何のともてはやすことが憎い――ということにまで進んで、そうして、その反動が新月を好きになることに加わって行くのです。
お銀様は今、新月の宵を、ひとり歩んで行くことの満足と快感とを感ずると共に、誇りに似たものをさえ思い浮べてきました。そうして、いつもこういう時に、念頭に上って来るのは、唐詩の
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