と、その闇から闇というのが、いっそ辛《つら》い日の目を見せて生かすよりは、大きなお慈悲ではないかという問題に出会っているのでございますから、その実行――つまり、先生のおっしゃる不言実行だって、そういちずに罪悪呼ばわりをするのはどうかと思われるじゃありますまいか」
「なるほど――理窟はとにかくとして、その子を卸すこと、つまり堕胎なんだね、その堕胎も、間びきも、滔々《とうとう》として不言実行されていることは事実なんで……また考えようによると、こうしてまあ徳川の天下が三百年も、ともかく無事で来ているというのも、見ようによれば、その不言実行が……」
五十九
そこで、道庵先生は自分の体験からして説き出しました、
「わしは、今でもこういうロクでなしだから、そもそもこの世に生れ落ちる最初から、このロクでなしの運命を持って生れて来たもので、わしの母親というやつが道庵を産むくらいのやつだから、どぶろく[#「どぶろく」に傍点]を飲むと夢みて孕《はら》んだわけでもあるまいが、こいつの生れるのを厄介がって、なんでもあとで懺悔話に聞くと、こんど生れやがったら、ひね[#「ひね」に傍点]ってくれると言って待構えているところへ産みつけられたのがこの道庵だ。母親が、つまりおっかアが、この野郎と言って自分の胎内から出たところを自分の手でとっつかまえて、もろにひね[#「ひね」に傍点]り殺そうとしたんだが、そこは、道庵を子に持つくらいの母親のことだから、やっぱり、今いった鬼心仏手というやつで、心ではこの餓鬼をおっぴねく[#「おっぴねく」に傍点]ってくれようと待構えていたんだが、手が言うことを聞かねえで、とうとう、あったらことに、道庵の一命を助けてこの世に送り出したばっかりに、天下の不祥を引起して、今日この通り人生《ひとい》かしを稼《かせ》がせるようになったのでげす。つまり道庵のおっかアが、このロクでなしを間びきそこねてこの世に送り出したわけなんだが、この間びくというやつに、目口を抑えるやつもあれば、灰を持って来て口の中へ頬ばらせるやつもある、鶏をつぶすように手っ取り早く、首根っ子をおっぴねく[#「おっぴねく」に傍点]ってしまうやつもある。道庵なんぞは、その手っ取り早いやつで、すんでのことにやらかされようとしたのを助かって、今日この通りの太平楽という廻り合わせなんだ、何が幸いになるか知れたもんじゃあねえ」
こういうことを、聞かれもしないのにべらべらと喋《しゃべ》って、曝《さら》さないでもいいおふくろと自分の恥を曝してしまったのも、酒のせいでもあり、相手が相手だから、無難だとも見たからでもあると思われます。
本来、道庵先生、道庵先生で通っているが、未《いま》だに誰も、その出所来歴を知った者はなく、自分も江戸ッ子だと言って啖呵《たんか》は切るけれど、いったい江戸のどこで生れたんだか、その本姓も、本名も、年齢も、知った者はない。大菩薩峠発表以来三十年にもなんなんとするけれど、未だ曾《かつ》て、道庵先生の身寄りだと言って、訪ねて来た人も一人も無いでしょう。
それほど、出所来歴の不明な道庵先生が、このままにして置けば、出所来歴の不明そのものが、やがて神秘的に衣をかけられて、勿体《もったい》もつけば箔《はく》も附くべきものを、よしないところで、言わでものことに口を辷《すべ》らせ、曝さでもの恥を曝すことになったのも浅ましい次第ですが、しかし、この告白もかなり割引をして聞かないと、前の落し話同様、思わぬところで種がばれ、底が割れないという限りはありません。
お雪ちゃんも、もう数刻の談話で、その辺の呼吸が少し呑込めたと見え、さして人見知りをしないようになりました。
その辺で、また道庵先生が一転して、堕胎や間《ま》びきの悪い風儀を罵《ののし》りながら、その口の下から、徳川幕府がこうして三百年も日本の国を鎖《とざ》していながら、人間がこの国に溢《あふ》れ返りもせず、人口過剰のために、乱民が出来たり、食糧不足が生じたりすることが、部分部分には多少なかったとは言えないけれども、大体に於ては、無事に三百年を経過して来たというものは、蔭にこの堕胎や、間びくことの不言実行が行われていて、そうして、おのずから人口調節になったのだという人の説と、これもまた一理あって、人間は鼠をつかまえて、鼠算だのなんのと愚弄《ぐろう》嘲笑するけれども、人間それ自身の殖え方が鼠には負けないこと、殖えるままに殖やし、生れるままに産ませて置けば、三百年どころではない、三十年、五十年で、二倍にも三倍にもなって、忽《たちま》ちこの島国は人間で蒸れ返ってしまう――そこで徳川三百年の間、たいして人口に増減がなく調節されて来たのは、この闇から闇の不言実行が、到るところに行われていた結果だという説と、そ
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