卸しちまった方が、子供のためにも、母のためにも、幸福じゃないか――こういって質問されているようなことになるんじゃねえかね。わしゃ、どうも頭が悪い」
と言って道庵は、そのくわい頭を軽く二三べん振って見せました。
「いいえ、そういうわけじゃないのよ、先生」
「どういうわけなんだえ」
「母と子との幸福のためには、産むということが犠牲になってもかまわないじゃないですか、と、わたしは考えていたものですから」
「はて、母と子との幸福のためには……産むということが犠牲――そうだな、やっぱり、露骨に言ってしまってみると、子供を卸しちゃった方が安心幸福ということになるんじゃねえか、と質問されているような気がするんだが、さて、お雪ちゃん」
さて、お雪ちゃん、と、ここで道庵がばかに大きな声をしたものですから、お雪ちゃんが思わず真赤になりました。
「さて、お雪ちゃん、お前さんの質問は、いやに廻りくどく、学者風になってつめかけて来るが、詮《せん》ずるところ、母の胎内から子を卸してしまうか、もちと露骨に医者の方で言ってしまうと、堕胎をしてもいいか、悪いか――なおいっそう現実的に言うと、間《ま》びいてもさしつかえねえかどうか、という質問のように、拙者には商売柄、そう受取れるが――そうなると外科だね」
道庵はお手のものと言わぬばかりに、けろりと取澄まして、べらべらと次の如く語り出しました。
五十八
「そういう問題は、今更、お雪ちゃんから提出されるまでもなく、世間では、もう充分に、研究も翫味《がんみ》もしつくされていて、今は不言実行の時代に入っているんだよ――まあ早く言えば、いろいろの意味で子を産みたくないという奴が、世間にはうんといるのさ。そりゃ、子を産みたくって産みたくって、神仏まで祈り立てる奴もあれば、子を産みたくなくって、生れようとする奴を産ませまいとして、また産み並べた奴をもてあましてるのが、天下にうんとあるんだ――今更、お雪ちゃんのように、そんなに事新しく、婉曲《えんきょく》に、上品に持ち出すのが古いくらいなもんだが、この道ばかりは、古いが古いにならず、新しいが新しいにならず、やっぱり、人間生きとし生ける間は繰返されるんだ。だが、お雪ちゃんのように、そう学問的に婉曲に持ち出す間は、まだ花で、不言実行となると、み[#「み」に傍点]もふた[#「ふた」に傍点]もねえのさ」
「不言実行とは、どういうことなんでございますか」
「言わずして実地に行う、こいつがいちばん始末が悪いね――老子|曰《いわ》く、言う者は知らず、知る者は言わずってね――こういう貧乏人にひっかかると、全く始末が悪い。今の問題で言うと、その不言実行、お産の方で、今の不言実行てやつが……」
「それが、どうなんでございます」
「言わずして行うというやつが、いちばん始末が悪いさ。宣伝屋や見栄坊なら、直ぐにそれと当りがつくが、不言実行というやつになると、どこでどうして、何をしているか、一向わからねえ、お産の方で言ってみるとだね、この不言実行てやつは……」
「それが、どうなんでございますか」
「つまり、闇から闇というやつでね――実行方法としては、今のその堕胎と、間《ま》びくというやつなんだ。お雪ちゃんが言論でもって、只今しきりに拙者に挑《いど》みかけている問題が、隠れて天下に堂々と実行されている、これがつまり、堕胎と、間びきということなんだ」
「どういうふうにして、その堕胎と間びきとやらが実行されていますか、それをお伺いすることはできませんでしょうか」
「おや」
「先生、そういうことを伺うのは失礼でございましょうか」
「失礼なこたあねえ、淑女の前でそういうことを口走る、こっちの方が失礼かも知れねえが、研究の心で、そういうことを先輩にたずねるのは失礼という話にはならねえ。まして医者に向って、そういうことをたずねるのは、餅屋へ餅を買いに行くのと同様、極めて自然にして穏当なことなんだから、遠慮なくお尋ねなさるがよい」
「ですけれど、先生、たった今、おや! とおっしゃって、ちょっと怖い目をなさったじゃありませんか」
「は、は、は、あれは、ちょっと眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったというだけなんだ、お雪ちゃんという子が、存外、真剣に、その不言実行の実行方法まで立入ってたずねて来たから、それにちょっと、面くらっただけのものなんだ――なあに研究的に聞いて置く分にゃ、何でもないさ、つまり性の教育なんだからね。ところで……」
「ええ、わたしも、そのつもりで、大胆におたずねしているのですから、あつかましい奴とおさげすみなさらずに教えていただきとうございます。世間では、今おっしゃる通り、闇から闇ということを罪悪のようにも教えていますし――また、わたしたちの疑問からして見ます
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